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戦争体験談「母の長崎原子爆弾被爆者救護体験について」

更新日:2026年2月12日

ページ番号:18588525

母の長崎原子爆弾被爆者救護体験について

宮崎 哲郎(64歳)

 (崎の字はたつさき)


 私の母は、長崎県大村市にあった「官立長崎師範学校付設養護訓導養成講習所」(養護教諭と看護師になる学校)に通学していた17歳の時の授業中に8月9日の原爆投下を迎えました。
 爆心地から60Kmほど離れているとはいえ、ものすごい光と音で棚などが倒れ、その日は全員防空壕へ避難し、その後長崎市内に「新型爆弾」が落ちたということが分かったそうです。
 翌日の8月10日から18日までの9日間「大村回生病院」において、「看護実習」の名目で長崎市内から列車で運ばれて来る半死半生の被爆者の救護看護にあたりました。
 
 その内容については「被爆者手帳」申請時の提出書類「行動の記録」に記載されていることを以下そのまま書きます。
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期日 昭和20年8月10日~18日(9日間)
場所 長崎県大村市 大村回生病院
 
活動内容

  • 負傷者の救護に当たる。
  • 傷の手当・包帯の取替と包帯の洗濯、巻取り。
  • 傷口のガラス破片取り。
  • 患者の食事の世話。

上記のことをグループで編成し交代で当たる。
 
当時の状況

  • 負傷者が多く、病院の通路も患者がいっぱいで埋まり、焼けただれた被爆者を目の前に、悲鳴と異様な悪臭の中で看護にあたった。
  • 帰宅してからも臭いが鼻について食事ものどを通らない状態でした。
  • 日がたつにつれて薬品の不足と夏の暑さで傷が化膿してきて、焦げた臭いと傷の腐った臭いが入り混じって、とても辛抱できないようでしたが、傷の痛みと暑さに苦しむ負傷者が可哀そうで、なんとかしてやりたいと一生懸命つとめました。
  • 傷から「ウジ」を取り去ってやり、(その時は生きた人間にできる事を知り本当にびっくりしました。)薬をつけてやったり、食事の世話等をしたり、少しでも楽になるようにと「うちわ」であおいでやり、胸がだるくなり汗びっしょりになりました。

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 まさに筆舌に尽くしがたい状況です。
 母からは、「死にかけていてほとんど動けない被爆者が、傷に「ウジ」がつくと動く。」と聞きました。「よっぽど痛いんだろう。」と言っていました。
 その時のトラウマか、その後30年間にわたって時々フラッシュバックで「人間の腐るにおい」が蘇ると言っていました。50歳を過ぎてやっとフラッシュバックは解消したそうです。
 つねづね「思い出したくもない」と言っていました。
 

令和8年1月29日寄稿

 


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