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戦争体験談「私の戦争体験の回想」

更新日:2022年3月30日

ページ番号:61345379

私の戦争体験の回想


米津 惟(84歳)


 
 戦争体験者が年々減少していく。昭和15年生まれの友人に体験があるかと聞くと覚えが無いという。私は12年生まれ。後何年生きられるか判りませんが私の戦争体験を回想して記録してみたいと思います。私は昭和12年大阪府豊中市の生まれ。父母は病気で若くして他界したので記憶に無い。
 
 祖父母と三人「阪急蛍池駅」より東の静かな住宅地に居住、高台に「薬科専門学校」があり下には静かな池が「三つ」並んでいて初夏の夜は「ホタル」が乱舞していた。池の辺には美しい松並木が続き、奥には「刀根山病院」と「結核療養所」があったように思う。私は19年春、「麻田国民学校」に入学。国語の教科書の最初は「サイタ、サイタ、サクラガサイタ」が記憶にある。学校の近くに「軍の飛行場」があり、二階の教室の窓から「戦闘機」が離発着するのが良く見え騒音で勉強に集中出来なかった。一階の教室は陸軍の兵隊が駐屯していた。朝早く学校に行くと炊事当番の兵隊さんが大きな釜で「ご飯」を炊き、横の釜では「みそ汁」を作っていた。当時国民は食糧に事欠き米の飯等口にすることは無かったが、軍には米が豊富に有ったのだろう。「白飯」を炊いていた。炊けた飯を「スコップ」で「バケツ」に入れ各班に配り釜のふちに出来た焦げ飯で「おにぎり」を作り、私にもくれた。まともに食べていない時にありがたく、とても美味しかった。早く学校に行き「ぼん内緒やぞ」と言ってよく貰った。やさしい兵隊さんやった。
 
 二学期ごろから空襲が激しくなり学校で落ち着いて勉強した記憶が無い。警戒警報が発令されると、各地域ごとに校庭に集合、家まで走って帰る。途中アメリカの「戦闘機」の「機銃掃射」に遭う、命がけで逃げ帰る事度々。日・米戦闘機の空中戦は凄まじい光景だった。随分怖い思いをした。学友の中には弾に当たり死亡したり怪我をした者も数名いた。アメリカの「爆撃機B29」が何十機も「編隊」を組み銀色の翼を光らせ、高度があるのでゆっくり飛んでいるように見えるが爆音が不気味で、いつ爆弾を落されるのかと思うと恐ろしく「防空壕」の中で震えていた。
 
 「大阪大空襲」の時は日中晴天なのに空は煙でまっ黒。肉眼でも太陽がはっきり見えた。燃え上がった物が太陽に照らされ「キラキラ」光り異臭もきつい。爆弾の破裂する音。「B29」の爆音。恐ろしくて、この世のものとは思えない「地獄」を見たようだった。その数日後、蛍池の奥の農村に「爆弾」が落ち村は「全滅」。町内会から救助に行った人の話では「五百キロ爆弾」が「五個」。飛行場に落すのが「的外れ」で農村に落ちたらしい。村の田、畑や家屋は全て吹き飛ばされて「全滅」生き残った人は数名。皆さん大怪我をされていたそうです。爆弾の落ちたあとは「すり鉢型」のとんでもない大きな穴で「蟻地獄」のよう。滑り落ちたら這い上がれないような深い穴だと聞いた。
 
 日増しに空襲が激しくなり飛行場から戦闘機が飛び立っても帰って来ず数が少なくなり飛行場には「木やベニヤ板」で作った「にせ物」の飛行機が並べられていた。「本物」は阪急電車の各駅前の広場に移動して「竹笹」や「葦ず」等で隠してあったのを良く覚えている。
 
 昭和20年8月5日「終戦少し前」。アメリカの「戦闘機」が「機関銃」で私の家に弾を打ち込み家は「炎上焼失」。町内会総出の消火作業で延焼せず我が家だけでおさまった。二階に大切にしていた亡き母の「嫁入道具一式」、私の五月節句の「武者人形」、跡形も無かった。「悔しい」。腹立たしい怒りが爆発した。何故我が家だけ狙われたのか。今、回想してみると当時長い軍刀を持った軍の上官に二階の部屋を貸していた。それしか思い当たらない。祖母は「ショック」で腰が抜け唖然としていた。焼け残った物置で祖母と二人の生活は想像を絶するものだった。
 
 「終戦」。まもなく祖母は私の名を呼び手を握り「私は仏になるでー」「惟は精一杯生きよ!!」と言い残し息を引き取りました。「8月31日61歳」町内会長様や町内の世話で簡単な「葬儀」をして頂いた。当時私は2年生、一人になってしまった。舞鶴の母方の祖母に中学校卒業するまで世話になった。それからが私の苦難の人生の始まりです。今日、この年まで人並みに真っ当に生きて来れたのは、私自身の努力でもあるが亡き父母、祖父母が見守ってくれたおかげかなと思う。「戦争さえ無ければ」。父母が若死にしなければどんな人生を歩んでいたか。
 
 古稀を迎えた年。62年ぶりに故郷へ帰ってみた。「阪急蛍池駅」は昔のままだが横に高い商業ビルが建ち「モノレール」の駅が出来ていた。ビルの上階からは「大阪空港」が手に取るように見える。昔学校の窓から見た飛行場とは規模が違う。旅客機の発着するのを見て子供の時見た戦闘機の発着とだぶって複雑な気持だった。「麻田国民学校」は同じ場所で立派な校舎に建て替わり「蛍池小学校」に名称が変わっていた。昔の通学路を歩いてみる。途中に「長寿寺」と言うお寺があった。勇気を出して訪ねて見た。住職の奥様と娘さんが出て来られ事情を話すと心良く迎え入れて下さり応接室に通して頂きました。「戦争中や戦後」。現在までの色々な話を聞かせて下さいました。子供の時の記憶と話が重なり合ったり「辻褄」が合ったりで心のつかえが取れ気持ちが休まり、有りがたかったです。
 
 70年ぶりに当時を思い出して書いていると空襲で「逃げ廻っていた」こと「勉強出来なかった」。「怖かった」。「辛かった」。「ひもじかった」。「寂しかった」。嫌なことばかりが「走馬灯」のように次から次へと思い出され目頭があつくなった。楽しかったことは何も思い出せない。
 
 戦争犠牲者の一人として体験を書きました。
 
 二度と戦争はごめんです。

令和4年3月22日寄稿

 

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