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戦争体験談「大阪の空襲」

更新日:2018年2月23日

ページ番号:77212578

大阪の空襲


太田 喜治(85歳)


 私は昭和27年、仕事の関係で西宮の小松に住む事になりました。思い返せば、はや65年も経過し、ここに来て遠い昔の戦争にまつわる体験談という記事を見て、これなら少しはと思い、筆をとる事にしました。

 生まれは、昭和7年2月1日で当年85歳になります。大阪天満近くの、あの日本で一番長いと言われた商店街の天神橋筋に枝端する黒崎西商店街というところで生まれました。家は衣服の雑貨店で肌衣、靴下、手袋、その他の小売店でした。両親と妹と私の4人暮らしでした。

 ここであの忘れもしないアメリカの大空襲で昭和19年3月13日の想い出となります。もちろん、当時は商店街の隣接した所に防空壕といって、家の地下に近隣で避難できる場所を作り、いざという時はすべてその場所へもぐり込むようになっていました。幸いにして、この日の空襲は焼夷弾攻撃といって、日本の木造建に集中攻撃をするつもりの様に思われました。この地区は爆弾攻撃はなく、それでいて周囲は火の海となったと記憶しています。

 早速、翌日、あの長い天神橋筋商店街をたどってみましたが、その景色は一変、焼野原でした。あちらこちらが焼け跡で、残っているのは土蔵といって土壁で造られた建物ぐらいでした。その中の金庫内の物はすべて焼け焦げて、紙幣なんかは灰になっていました。私の家もそのまま住む事はできず、少し離れた叔父さんの家にお世話になることにしました。場所は大阪でも南の繁華街の阿倍野の近鉄百貨店の近所でした。この周辺は当時から大小のビルが多く、木造の家は少なかったです。だからなのか、後日アメリカの空襲は爆弾攻撃となってきていました。

 夜に地震と思うような大きな揺れと音にびっくりして、飛び起きて見に行きました。すると、ものすごい光景に変わっていました。人の首や手足がバラバラで、電線に足や腕がひっかかり、死体があちらこちらに飛び散ったような状態でした。トラックが来て、死体を積んでいるのを見て、目をふさぐ思いでした。

 一方、食糧事情も非常に悪く、その日食べるお米がなく、お米に代わって、その当時こうりゃんといって満州産のたかきびを食べさせられたのを覚えています。それからお米の手当に買い出しが始まります。以前、商売をしていた時の肌衣や手袋、靴下などを持って田舎の方へお米やその他、お芋といった代用食となる様なものも含めて物々交換が始まりました。しかし、それも統制が厳しく、やっと交換して頂いてきたお米や芋は田舎から帰る途中、列車がある駅で止まった時、予告なしで突然、警察官が乗ってきて、「持っている荷物は皆持って降りてください」と言ってロープを張って、一方通行にさせて、お米とかお芋とかの代用食となる物は皆回収されてしまいました。それから、運び方を考えて、防弾チョッキといって袋編みになったチョッキの袋部分にお米を入れて、それを体に巻いて外へコートを着て、汽車に乗った覚えがあります。

 それと私は大阪暮らしでしたが、お米などは滋賀の田舎の方へ行って、衣料品と交換して頂いて持ち帰り、途中、京都駅に着くまで持っていると、警察に没収されてしまうので、京都駅到着前の川、すなわちその鉄橋下にお米の運び屋さんが迎えに来て、その係に渡すべく、列車の中から一時的に同じ方向に積み落とす準備をするため、列車が大きく傾きを覚えた事がありました。怖かったです。

平成29年9月4日寄稿

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