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「戦争体験談」

更新日:2018年2月23日

ページ番号:18271839

戦争体験談


水野 喬司


 昭和20年(1945年)の当初から終戦を迎えるまでに、空から降ってくる1トン爆弾と500kg爆弾と焼夷弾と原子爆弾を経験した人は、日本中でも広島と長崎以外では、少ないのではないのではないかと思われます。

 この年には、兵庫県武庫郡御影町石屋字御陵(今の神戸市東灘区御影中町)に住んでいました。当時、御影には、国道を挟んで第一と第二国民学校があり、御影第二国民学校(今は、県立御影高校)の3年生で住んでいた家は学校の北側にあり、庭には家族だけが入れる小さな防空壕が掘られており、天井には大酒樽の上蓋を置くだけで、空襲の無いときは上蓋を持ち上げて開けた状態でした。

 3月には大阪と神戸の大空襲があり、どちらの空襲も自宅から火災が見えました。その間、阪神間の海側に軍需工場が多くあったために幾度も空襲があり、1トン爆弾が何回も落とされておりました。

 6月5日の早朝、空襲警報がなり、ラジオでは敵機来襲することが告げられたと同時に、東の上空からはB29爆撃機(この時の数350機)が見え、雨あられのごとく焼夷弾を落とし、その音はざぁーと同時にドッカン、ドッカンと爆発音と同時に火の手が見え、早くも近くの家に落ちたのか、あちらこちらの家が燃え始めており、幸いにも自宅には直撃は免れたものの、B29が通り過ぎるまでしばらくは防空壕に入って周りの状態を家族で見ていたが、いずれ火の手が自宅にも燃え移り、どこかに逃げなければ焼死するのが分かっていたので、少しでも家の持物を助けるため、母と姉と兄と4人で家の横にある井戸に衣類と布団を投げ入れました。

 逃げる時、布団に水を十分掛けてから、逃げ道として向かいの家の中を通り、大きめの非常用として設置されていた防火用水までどうにかたどり着き、4人が固まりながら布団をかぶり、火の手が下火になるまで、1時間以上水につかっていた。

 逃げる途中、火の手がきつく、母親は布団を掲げていたために両腕に火傷を負い、私は半パンツであったため、火の手が地をはってきたために、両足のふくらはぎを火傷しました。

 防火用水には、我々の他に同じ避難した人が3人もおられた。母と私の火傷の手当を御影公会堂でしてもらえることを教えてもらい、火も下火になったので、第二国民学校の東の道を2人で歩いていると、道路には真っ黒焦げになった人が幾人も転がっていた。国道に出て、西に向かって歩いていると、道路には自動車や馬と荷台があちらこちら見られ、全てが黒く焼けていた。

 なぜか御影公会堂だけは健全で焼夷弾からも逃れており、前まで来ると避難してきた人や怪我の人たちでごったがえしておりました。順番待ちで母と私は、火傷の薬を塗ってもらい、自宅に帰ってきたが、周り一面焼け野原で見晴らしがよかったのを覚えている。鉄筋コンクリートの国民学校も全て焼け落ちていたが、建物だけは残っていた。その日は近くの綱引天神で夜を過ごしました。翌日、火傷の治療のために山手にある甲南病院に母と行ったことも記憶に残っている。

 この空襲の状況の事を直木賞作家・野坂昭如氏(六甲側の成徳国民学校卒業)が「火垂るの墓」で兄清太と妹節子が焼夷弾で家が燃えている所から避難し、東明の海岸から石屋川に避難した後、御影第一国民学校に母親に会いに行く場面が描かれているので、石屋川を挟んで同じ日、同じ時間、同じ状況を経験したのを小説にしてもらい、体験として残して頂いたものと思っております。

平成28年9月9日寄稿

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