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戦争体験談「人生で一番恐ろしかった記憶」

更新日:2018年2月23日

ページ番号:43465732

人生で一番恐ろしかった記憶


亀田 貞(83歳)


 開戦の年の昭和16年に小学校(当時は国民学校と名付けられた)に入学しました。今の様な立派なランドセルなどなく豚皮の薄い質素なランドセルで、それでも嬉しく飛びまわっていたのを思い出します。

 段々と戦争が激しくなってくると、登下校に防火頭巾を被って、授業の途中でも空襲警報のサイレンが鳴ると一斉に走って家へ帰り、庭に掘った防空壕に入って、敵機が去り、警報解除の報せがあるまで震えながら待っていました。

 アメリカのB29爆撃機が空が暗くなる程の数で、ものすごい轟音をたてながら上空を通り、今にも爆弾が落とされるのではないかと、早く通り過ぎるのを祈るばかりでした。
 私の家は大阪の郊外(今の羽曳野市)にあり、ちょうど上空が飛行機の通りみちの様でした。戦争も激しさが増してくると、整備不十分になるのか、日本軍の小型飛行機が3度程、私の家の近くの池や田んぼに落ちました。ちょうど私の父が外科医だったので、その度に運ばれてきて、父が治療していたのを覚えています。今の様な車やバス等は足りなくて、兵隊さん達は徒歩で何十キロも移動していて、信太山連隊場までの通り道だった私達の家は、よく休憩所として利用されていました。

 ある夜、警報が鳴って急に轟音が聞こえ、少し離れた目の前に何百と数え切れない赤い弾(後で焼夷弾だと知ったのですが)が落とされ、一面が真赤に燃え上がっているのを見ていました。後で、堺の街が全て焼けてしまったと知りました。

 小学校4年生の時だったと思います。1人で道を歩いていると、その時は空襲警報も出されていなかったので、空に2機の飛行機が飛んでいたけれど、日本軍だと思って安心して歩いていると、突然その中の1機が急降下してきて、私めがけて機銃掃射で撃ってきました。考える暇などなく、走って走ってちょうど竹薮があったので、そこに逃げこみました。竹薮の中まで撃ってきたのですが、辛うじで助かりました。あの時、竹薮がなければ今の私は居なかったでしょう。グラマン戦闘機の恐ろしさは身にしみました。一生忘れることの出来ない恐い思い出です。

平成29年8月1日寄稿

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