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戦争体験談「ピカドン」

更新日:2020年4月8日

ページ番号:45954677

ピカドン


武居 勝敏(74歳)


 私は1945年4月、母親が兄を連れて疎開した島根県の母親の里で生まれました。私と妻の家族15人の内14人が被爆者で、戦後生まれの妻は被爆二世です。今回は私の家族5人の被爆体験を記します。被爆当時、生後4カ月の私には被爆体験の記憶はありませんが、焼野原が遊び場だった私は生活そのものが被爆体験者として育ちました。広島では原爆のことを「ピカドン」とか「ピカ」といいます。

 父と13歳上の姉は、広島市内に住んでいました。8月5日、父親が出張していたため広島女学院に通っていた姉は家に一人きりでした。心細かったと思います。空襲警報におびえ、防空壕に避難したり自宅に帰ったりしました。6日午前7時30分ごろ空襲警報が解除されましたが、眠れぬ夜を過ごしたため、壕の中で眠ってしまいました。この時眠っていなければ、爆心地近くの建物疎開に行き、命を落としていたと思います。なぜなら爆心地から1.1kmの雑魚場町の建物疎開に行った同級生350人のほとんどが爆死したからです。一度目の九死に一生を得ました。

 午前8時15分、家に戻っていた姉は、爆音に気づき窓からB29を見上げました。首を引っ込めた瞬間、「ピカッ」とまるで太陽が落ちてきたかのような白い閃光が走り、次の瞬間ドーンと強烈な地響きと爆風で崩れた屋根の下敷きになり、記憶を失いました。そのまま顔を出していたら3,000度の光線で焼かれて二度と見られぬ顔になっていたかもしれません。

 しばらくして気が付き、家の梁の下から瓦礫をかき分け、抜け出すことができました。何が起きたかわからないまま、半分つぶれた家から防空頭巾と手ぬぐいを持って外に出ました。下着一枚、裸足だった。少し歩き始めると頭からどっと出血が始まった。近くの川土手に上がると近所の酒屋の奥さんがいて「玲子ちゃん、あんた血だらけよ」と手にもっていた手ぬぐいで頭を縛ってくれた。「山の方に逃げんさい」と言われて山の方へ歩き始めると近所の八百屋のかやぶき屋根に火の手が上がり燃え広がっていた。山裾までとぼとぼ歩くが出血がひどくて何度も呼吸が止まり、もうだめかと思った。なんとか斜面の笹薮にたどり着いた。まだほとんど人は居なかった。

 昼になると燃える町から次々と人が逃げてきた。「水をください水をください」「あついあつい」とうめく声。みんな裸同然でぼろをまとい、腕から皮膚を垂らして歩いた。子供も皮膚が垂れて母親と手を繋ぎたいが皮膚が邪魔して繋げない。真夏の太陽は容赦なく照り飲み水はない。夕方には踏み場もないほど人で真っ黒になった。山裾の斜面から息の絶えた人が滑り落ちていった。地獄絵だ。

 父は郊外の勤務先で原爆を見た。8時15分、ピカーと閃光が走りドーンと強烈な音がして裏山の木が揺れた。しばらくするとあのきのこ雲が見えた。一人家に残した娘を助けようと職場を出る。広島駅まで軍の車が送ってくれたが、町は火の海で暑くて近づけない。路上は死体で埋まり、倒れた電柱や家を乗り越えて夕方家にやっとたどり着いた。娘が山の方に逃げたと聞き、「玲子、玲子」と呼ぶ声に、姉はか細い声で「おとうちゃん」と応えた。血だらけになった娘を背負うが呼吸が苦しい姉は「おろして、おろして」と叫ぶが構わず父は家まで連れて帰った。

 途中には防火水槽があり、沢山の人が身体を突っ込み折り重なるようになって死んでいた。父は道に横たわる死体をよけて歩いた。八百屋の屋根から燃え移った火事は隣の家まで十数軒が焼け落ちて我が家の隣で止まっていた。家は壁と屋根が落ちたが、雨風をしのげる部屋を片付けて、水道は出ていたので父は姉の身体を拭いた。父が見つけていなかったら傷と脱水で命を落としていただろう。二度目の九死に一生を得た。

 姉のけがは頭蓋骨に至る裂傷で手当てする薬や包帯もない。3日後に呉から軍医が来て小学校の校庭で治療を受けた。校庭にはテントもなくベンチが一つ。背負ってきた娘をその上に寝かせて麻酔もなくキズを縫った。大声をあげて泣き叫んだ。その時の痛さは今も忘れていない。一週間後に再び治療を受ける。血で固まった髪の毛の別の場所から刺さった木片が出て来た。

 原爆投下の10日後に母は兄と私を連れて広島へ帰り家族5人は再会した。広島駅に降り立った母は、焼野原になった街を見て「これはダメだ、みな死んだ」と思った。今日はここで寝よう、兵隊さんがくれたむしろを敷いて一晩をあかした。朝になり家に向かう。2kmほど歩いて焼けたその先に半分崩れた我が家を見ると家の中で動くものを見た母は大声をあげて走り出した。11歳の兄もついて走った。5人が再会し嬉しいはずなのに、その時のことを姉は「何とも思わなかった」と語りました。被爆で生死をさまよった心は無感動になっていたのです。

 私が子どものころ、近所には火傷やケガで不自由になった人が沢山いました。治療する薬も包帯もなく傷口は膿がたまりハエが卵を産んで幼虫のウジ虫が這いまわる。いずれ腕や指は曲がったままくっついて固まり不自由になるのです。

 二発の原子爆弾でその年の内に、広島で14万人、長崎で7万人もの人が亡くなりました。私が記したことは被爆地では大した話ではないのです。いや、幸運な話なのです。全員が生きて再開できたのですから。「戦争は平和をつくり、平和は戦争をつくる」と言います。戦争は命の大切さに気付き、平和は戦争の恐ろしさを忘れる。「災いは忘れたころにやってくる」「歴史は繰り返す」と言います。

 被爆者は後遺症に苦しみ、不安な思いを一生背負って生きています。未来に生きる子供たちが平和に暮らせるように原爆の恐ろしさを語り継ぎ「核兵器のない世界を見届けてからこの世を去りたい」と願っています。

令和2年2月27日寄稿

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