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戦争体験談「20歳の戦争体験」

更新日:2018年2月23日

ページ番号:52760505

20歳の戦争体験


島津 永一


 太平洋戦争末期、私は川西航空機宝塚鹿塩工場の医務部レントゲン科に白紙召集(国民徴用令)にて勤務しておりました。それは夏の暑いカンカン照りの7月(昭和20年7月24日)の昼前、空襲警報のサイレンが高々と鳴りましたが、今までは何度も素通りで、今日もそうだろうと小さい鍋で昼食1食分の米を電熱器の上に乗せた時、敵機の編隊の不気味な音。外に飛び出して空を見上げると30~40機位の大編隊が工場の方に向って来るのが見え、あわてて防空壕に飛び込んだ。その直後、物凄い地響きと耳がガーンとする大きな爆発音。もう生きた心地も無く、耳をおさえて小さくなって終るのを待つしか無く、いつ頭の上に落ちてくるかと不安の気持ちと、畜生、こんな所で死ねるかとか、ここで一生の終りに成るのかとか心の中で色々ゆれ動いている自分を情けなく思った。

 少し爆音がおさまったので、外を見ようと出口へ。爆撃で壊れて生き埋めになっている。早く出ないと、と気があせると、ますます息苦しくなってくる。必死になって壊れた木材か砂をどけて少しずつ出口を広げ、やっと首が外に出た時は助かったと思ったが、外は真夏の昼間なのに、太陽だけが茶色の霧の中にボーっと見えるだけ、他は何も見えず、私はもう死んで地獄か極楽に来ているのではないかと思うような風景でした。

 早く工場の外に出ないと次々と来る爆撃に次は壕も無いので、もう命はないと外に出たが、脚が膝までずぶーと入り、歩きにくい。少し歩いている間に辺りが見えて来た。あの大きな広かった工場が折れ曲がった鉄骨だけになった姿が見え出した。爆発で舞い上がった砂が、砂嵐が霧のようになって地上に落ちていたのだ。その砂で雪が積ったような状態に早く逃げようと思って、気はあせっても足もと一歩一歩、膝までズボズボと入り、その上、爆弾の跡の2m四方穴ぼこだらけ、とその時、また次の敵機の編隊が近づいて来る。もうダメだと思ったが、穴だらけの穴の真中の一番深い所に頭から飛び込んだ。またまた、身体が宙に浮き上がる振動と共に強烈な爆発音と風圧、耳の鼓膜が風圧で破れ、両耳が全然聞こえなくなったが、穴に飛び込んだお陰で怪我一つせず、命は助かった。

 工場外に早くと、大分歩くのに時間は掛かったが、川原に出た時は本当に助かったと思い、ホッとして砂だらけの顔や手を洗って本部に着くと歓声で迎えられ、あの凄い空襲の中で命が助かったのは不思議だと皆に喜ばれた。そしてすぐ耳の応急処置をしてもらい、私も皆と一緒に多くの負傷者の手当てに耳の痛さも忘れて手伝った。

 手足がブラブラの、手の無い、足の無い、尻の肉の片方を削り取られた女子学生達。目をそむけたくなる。夜は耳がうずいて寝られなかったが、薬の張り替え、包帯の巻き替えと患者の手当の時は自分の痛さも忘れられた。毎日水がほしい、水下さいと言う女学生達。水をやりたいが、水を飲ますと死ぬと言われ、仕方なく知らんふりをするが、つらい気持ちで涙が出てくる。

 工場は全滅でもう何も仕事は出来ない。亡くなった人達を木で組んだヤグラに何段かに積み上げてガソリンをかけ、火をつけて焼く。何日も続いた。私の先生も鉄かぶとが2つに割れ、頭をやられ亡くなった。残務処理という事で毎日残った機材や薬品等を山の中に穴を掘って、米軍に取られないように隠すため、運ぶ仕事に追われた。

 こんな思いは二度としたくない、またこれは天災ではなく、戦争さえしなければ避けられる事で、そのため、日本のあちらこちらで何千何万の人々が、武器も持たない国民が死んでいるのだ。その後の原爆2発でやっと戦争は終わった。若い人々の時代、二度とこんな馬鹿らしい事で死ぬ事の無いように、そんな政治家が出ないように、戦争にならないように、皆で日本の国を守ってほしい。

平成28年7月14日寄稿

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