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戦争体験談「私の戦争体験」

更新日:2018年2月23日

ページ番号:66616051

私の戦争体験


小西 禎子


 昭和17年4月、緑の木々の生い茂る丘の上の女学校に入学しました。その頃は、日華事変(日中戦争)から、大東亜戦争(太平洋戦争)に変わった翌年でしたが、食べ物は、まだ不足しておりませんでした。

 バレー部に入り、当時は広い講堂はありませんでしたが、体育館はなく、外の運動場で練習をします。はじめは、コートの外で、上級生のプレーを見ながら、ボール拾いをしていました。

 夏休みに入り、炎天下のプレーですので、とても暑くて耐えられませんでした。そんな時、合間をみて、コーチ(数学の先生)が、私達新入生に用事を作って下さいます。それは、タテ・ヨコ2cm、長さ15cm位の立方体、つまり、アイスキャンデーを先生のポケットマネーで買いに行きます。買ってくると、練習を中止して食べます。あの冷たい氷を口にした感触、こんなおいしいものを食べられたことが、とても幸せに感じました。

 その頃、元気だった父が体調をくずし、診察の結果、胃ガンとわかり、体の弱かった母が献身的に看病しましたが、その甲斐もなく、相次いで亡くなりました。その後、2人の兄も兵隊に行き、1人になった私は、JR須磨駅近くの叔父の家に引取られました。戦況が次第に激しくなり、3月17日の神戸大空襲で市の中心部が丸焼けとなり、続いて、6月5日に空襲警報のサイレンが鳴ると、いつものように、庭に掘った防空壕に防空頭巾をかぶり避難しました。その途端、壕の外で「ドドーン」と激しい焼夷弾と地響き、目と耳を押さえて、縮み込んでしまいました。しばらくして、まわりが静かになり、警報が解除されたので壕から出ると、先ほどまで住んでいた家が燃え盛り、前の道路も解らなくなり、叔母と「どうしよう」と立ちすくんでしまいました。そこへ、燃えている家の中から、叔父が出てきて「ついておいで」の一声で、炎をかい潜り、須磨の海岸まで夢中で逃げ、一晩を過ごしました。

 警報が解除されて、翌朝家に戻ると、今まで住んでいた立派な木造住宅が影も形もなくなり、灰と化していました。その上、隣りの家の焼け跡に、直径30cm、長さ2m位の不発弾が突き刺さっているではありませんか。もしも、破裂していたらと思うとゾーっとしました。

 住まいを失った私達は、叔父は勤務先の会社の寮に、叔母は岡山県の親戚の家へ行き、私は学徒動員で働いていた工場(航空兵の非常食で、乾燥肉と卵を乾燥させ糖衣した食品を作っている)の寄宿舎で、終戦まで住みながら働きました。

 よく、警報が鳴ると、屋外の防空壕へ避難し、解除になるまで目と耳を押さえてジーっとしています。これも度重なると慣れてきて退屈になり、誰からともなく歌を口ずさむようになり、「春のうららの隅田川」の歌を合唱し、輪唱して時を過ごしました。やがて終戦となり、帰る家のない私は、京都の親戚を頼り、そこから朝5時に起こしてもらい、朝食を済まし、JRに乗り、今の神戸・灘駅近くの女学校に通いました。

 そうこうしている内に、2人の兄も元気に復員し、兄弟助け合い、女学校も無事に卒業しました。その後、勤め先を探していましたら、知り合いの方から、小学校の先生が足りないので、手伝って欲しいとお声がかかり、厚かましく、3年半、4年生を担任しました。

 その頃、年配の先生が数人、大きなお釜の前で粉ミルクを溶かしておられました。これが学校給食のはじまりではないでしょうか。

 あの戦争を体験した私、今の豊かな生活を思うと、長生きして良かったなあと、思う今日この頃です。

平成28年9月21日寄稿

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