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戦争体験談「戦争は破壊と消耗のみ」

更新日:2021年9月21日

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戦争は破壊と消耗のみ


宮内 宏


学齢前の戦争体験(大阪空襲)
 戦況が悪化する中、昭和19年10月下旬に赤紙招集を受け、満州に出征する父親を大阪の実家で見送りました。大阪では空襲警報のサイレンが鳴らない日はない状態でした。叔父は剣道六段、今宮中学に勤務する先生でもありましたが、軍人でもあり、当時の陸軍飛行場(現在の靫公園)で警報の度に飛行機を飛ばしていたようです。

 年が明けて昭和20年、春には小学生になるのですが、3月に、夜が明けたら蓄膿症治療のために入院する母と、弟妹と共に大阪市南区八幡筋の母の実家で眠っていました。未明に『空襲警報発令』と警防団の『焼夷弾投下』の声で跳び起きると空一面が花火のようにきらきらしながら何かが落ちて来るのが見えました。既に部屋の床には青い布から炎がメラメラと舞い、道路の向かい側では屋根から炎が渦まいて噴き上がり、周囲の人々が手押しポンプを押していたのを記憶しています。

 今ではこんなに狭い道路だったのかと思うほどの道を、両側の家の燃える火照りに耐え、防空頭巾をかぶり、叔父の勤務先だった今宮中学まで歩きました。道端には息絶えたのか動かない人々が大勢倒れていました。中学校でおにぎりを頂いて、真っ黒な煙で太陽の輪郭が分かるような夜明けに、一面焼け野原の中を大阪駅まで歩き、阪神電車で祖父母や叔父叔母と共に西宮の家が無事である事を祈りながら避難しました。大阪は一面に焼き尽くされ、黒煙が立ち昇り大阪駅からは大阪城も見えました。

西宮での戦争体験(疎開と空襲)
 4月からは大阪城の側にある小学校に入学予定でしたが、戦火はますます激しく空襲の回数も増し、西宮の松下町の自宅庭にも、コンクリートを使った厚さ30センチ程の防空壕も作られ、何回も壕の中に逃げて夜を過ごした事もありました。壕には大人が10人前後入れる大きさでした。西宮の自宅でも2階の部屋の畳は万一に備えてすべて取り外し積み重ねられていました。

 厳しくなる空襲で大阪の小学校への入学は困難と、祖父母と共に摂津富田の知り合いの農家に疎開しました。空襲は農家にも昼間から襲い掛かり、子供たちは身につけている白いシャツを脱ぎ、側溝などに隠れて警報が解除されるのを待ったものでした。

 昭和20年6月の西宮空襲は真っ昼間でしたが、警報のサイレンがけたたましく吹鳴し阪神国道の夙川橋梁の下に隠れましたが、子供たちも空襲に慣れ平然と過ごす日々が続いた様子でした。焼夷弾による空襲は松下町でも香枦園駅周辺はすっかり焼失しましたが、辰馬家のお屋敷と近くの水田が防火帯になって延焼が食い止められたのも地域が残った大きな成果です。

 警報解除された自宅には、屋根に直径2メートル程の穴があき、六角か八角の弾体から青い布切れ(隣が染込んでいる)が漏れて燃えていました。庭には多角形の弾体(長さ50センチ程度)と、弾体を束ねていた中心の金属、そしてスチール・ベルトが沢山散乱していました。焼夷弾の弾体は戦後各地で不発弾で死傷される報道もあり、物置台として自宅内にあった十数本も戦後数年して提出しました。

 2学期から大阪に転校し、西宮から通学しましたが城の堀の石垣の崩れや、浮浪児が靴磨きや新聞売りをしている事など驚きました。浜脇小学校から南側には大きな軍需工場がありましたが、すべて焼け落ちて骨組みだけになっていたのが生々しく思い出されます。

 昭和21年3月に父親がシベリア抑留死した公報と遺骨と称する竹筒も受け取りました。戦争に至るプロセスには、それなりの理由もあり、一概に戦争批判してもいけないと思いますが出来る限り平和を守りましょう。

平成28年7月25日寄稿

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