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戦争体験談「戦争の思い出」

更新日:2018年2月23日

ページ番号:47016980

戦争の思い出


長谷川 喜世子


 次は「遥かなる母校」西宮高女の太平洋戦争に私が書いた記事である。

 題「命だけがほしい」

 「ブー、ブー、ブー、ブー」昭和20年8月5日夜半、空襲警報のサイレンが西宮全市に鳴り響いた。疎開、応召などにより、両親と私の3人家族に減ってしまっていたけれど、モンペ姿に防空頭巾、救急袋を肩にかけて裏庭に造ってある防空壕に避難した。

 B29の爆音と共に、爆弾の落ちる音などが入りまじり、防空頭巾の上から両手で押さえている耳にも響いてくる。

 「いつもの空襲と違うで。こんなことをしとったら命がないで。裏のお墓へ逃げよう。」との父の声に、防空壕から出て見ると、昼のような明るさである。それは焼夷弾のため、あたりの家々が炎上している明るさだった。

 300坪以上もある畑を無我夢中で走り、200年以上はたっていると思われる大きな榎の下に夏布団にくるまって3人で座った。墓地には類焼がないと考える人たちも多いのか、大勢の人たちが集まっていた。

 しばらくして、ふと見ると榎の葉が燃えている。とっさに「西へ逃げたら・・。」と脳裏をかすめたが、たちまち、その考えも否定せざるをえなかった。それは、あたり一面火の海で逃げ場がないと気がついたからである。両手を合わせて、「どうか、命だけは助かりますように」と必死に神にすがっていた。

 その時、ポツポツと降り始めた。やがて、真っ黒な雨が勢いよく降ってきたのだった。「助かった」と心からそう思った。西宮全市の火事の消火の役割をしてくれたのだ。

 夜が明け、無事の報告をしなければと、学校に向かった。学校に近づくほどに、いつも通っていた旧国道は電柱が倒れ、瓦が飛び散り、足の踏み場もないありさまであった。学校の南東の田んぼのあちこちに、防空頭巾とモンペ姿の死体がゴロゴロところがっていた。特に学校の農園として使っていた場所には死体が多くて、防火用水池(農業用水池)にも死体がたくさん浮かんでいた。

 それから1ヵ月がたっても、西宮の空気は死体を燃やした臭気が消えなかった。登校するようになり、運動場を耕す作業中に遺骨が出てくることもあった。

 話によると、学校の運動場に阪神電車のまくら木を並べ、石油をかけて死体を焼いたということであった。「命だけは助かりますように」と願いながらも、死んでいった人が多くおられたことを思わざるをえない日々であった。

 西宮高女の「遥かなる母校」ができ上がり、主人が、私の書いた記事を読んで第一声、「バカ!お前が居るから、日本は負けたんや!」

 2人共、その後の言葉が出ませんでした。主人は旧制中学4年生で特攻隊。多くの友が命を失い、通信兵だったので帰国。

 2人共、戦争に関しての話し合いは一切しませんでした。だが互いの心は理解できる。戦争は悲惨なものだというより他にはない。

平成28年12月20日寄稿

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