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西宮市歴史資料写真展「国道171号 1970大阪万博への道」

更新日:2021年7月29日

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例年アクタ西宮で開催していた写真展に代わり、ホームページ上で1つのテーマに沿った写真、資料の展示を行います。今回のテーマは「国道171号 1970大阪万博への道」です。

総合解説

昭和45年3月14日、当時史上最大といわれたアジア初の祭典、「日本万国博覧会」の開会式が大阪で行われました。テーマは「人類の進歩と調和」。戦後日本の総力を上げて取り組まれ、東京オリンピックに次ぐ大規模な祭典でした。

東京でオリンピックに向けて整備された「オリンピック道路」と呼ばれる幹線道路に対して、京阪神の道路網は万国博に向けて大規模な整備が行われました。新聞等メディアにも「万国博までに」という言葉が頻繁に登場し、“万博道路”とも言える道路がぞくぞくと整備されていきました。

西宮市内は神戸方面から万国博会場への通行車両が急増することは容易に推測されました。そのため、大阪での万国博開催が決定した昭和41年より大規模な道路整備計画が練られました。
今回はその道路網の中から、“イナイチ”と呼ばれる国道171号の西宮市内における整備について昔の写真や地図、資料で振り返ります。

西国街道を新しく-明治以前からの課題-

旧西国街道

かつての西国街道は、京都と兵庫を最短距離で連絡する街道として古くからの主要道でした。しかし幅員が狭い上に、うねうねとした道だったこともあり、幕末の慶応三年(1867)になされた兵庫港開港を機に西国街道付け替えが計画されたこともあったようです。ただその計画は実現することなく、明治以降も西国街道はほとんど未改良のままでした。

 
 
西国街道は現在の報徳学園北側から“髭の渡し”で武庫川を渡っていた。甲武橋の架設は明治42年。西国街道よりかなり南に橋が架けられたのは武庫川の岸幅が小さくなっていたためと考えられる。西宮方面からは西国街道から中ほどで別れ、上大市から樋ノ口への旧道を通って甲武橋に出ていたようである。

昭和30年代 報徳学園から旧西国街道を望む
昭和30年代 報徳学園校舎から南西を望むと、田園の中に西国街道筋がはっきりと見えていた。

西国街道の改良に向けて

明治以降の産業の発展に伴って自動車交通も活発になり、京阪神を結ぶ西国街道の重要度が大いに増したことで、兵庫県では周辺市町村に道路整備の要望がおこり始めました。
昭和10年6月24日付で、西宮市長と武庫郡甲東村(現西宮市)・武庫村(現尼崎市)、川辺郡稲野村・伊丹村・神津村(以上、現伊丹市)の町村長が連名で県知事に陳情書を提出するに至りました。陳情書の全文は昭和10年7月20日発行の「西宮市公報 第103号」に掲載されています。

昭和10年 西宮市公報
西宮市公報第103号(昭和10年7月20日発行)より

“新西国街道”建設

西宮市内の西国街道改良計画については西宮都市計画土地区画整理として決定し、昭和11年9月4日に内閣の認可を得ました。

これを受けて昭和12年、13年度に測量・製図を終え、昭和14年6月には土地買収の交渉が始まりました。計画変更を経たのち、昭和16年6月内務大臣の設計認可を得て、10月22日阪急門戸厄神駅南側において起工式が行われ、本格的な工事に着手しました。

西国街道起工祭
西宮市公報第179号 (昭和16年11月20日発行)より 「上大市字ムヨミ」は現在の門戸荘南部にあたる。

“新西国街道”とも呼ばれた道路は阪急今津線以西に一部工事の完成をみましたが、昭和19年に入ると戦時体制が強化されたこともあり、事業の中断を余儀なくされました。しかし、この工事の進捗によって“新西国街道”は幅員15~17mの立派な幹線道路となり、京阪神の往来は大いに促進されました。

昭和17年撮影航空写真
昭和17年撮影航空写真 (出典:国土地理院)

右端は武庫川。“新西国街道”と呼ばれた現在の国道171号は、くっきり白く見えている。他の道に比べて幅員があるのが分かる。
旧西国街道の髭の渡しは写真最北部あたりにあった。甲武橋の建設は明治42年。

国道171号へ-戦後のあゆみ-

“新西国街道”が二級国道に

戦後すぐ、中断されていた西国街道土地区画整理事業が再開され、“新西国街道“は昭和28年には二級国道171号に指定されました。(国道の一級・二級は昭和40年4月の道路法改正により廃止)
当時の国道171号は、甲武橋から南西に進み阪急今津線と平面交差し、御手洗川を西に越えるとすぐ青木交差点で南下し、国道2号に連絡する路線で認定されていました。
しかし実際には171号を通る車両の多くが、比較的道幅が広い市役所前線を通って国道2号方面に抜けていたようです。

昭和30年代に入ると、国内の自動車交通は急成長期を迎えます。二級国道に指定された昭和28年以降は、小型四輪車や軽自動車をはじめとした自動車所有台数が年々大幅に増えました。信号機や横断歩道等の整備が十分でない中、歩行者、特に子どもが犠牲となる事故が続発しました。「交通戦争」と称された時代です。
さらに国道43号が開通したこともあり、市内の南北路線はどこも車両が増え、とりわけ市役所前線の交通渋滞がひどくなっていました。

その間、市議会でも札場筋線を拡幅し、国道171号と連絡させることによる南北交通の円滑化について何度も議論されました。 

昭和36年 市議会の様子
昭和36年 当時の市議会の様子

阪急電鉄神戸線夙川-御手洗川間高架化工事

一方、市内の南北交通円滑化に向けては、昭和32年10月の兵庫県都市計画審議会において、阪急電鉄神戸線夙川-御手洗川間の高架化が計画されました。
昭和37年2月の調査によると、市役所前線と阪急電鉄が交差する「広田道踏切」の遮断時間は一日に延べ8時間47分にものぼっていました。

上はいずれも昭和39年撮影。混雑する市役所前線 広田道踏切を北側から写す。

昭和36年に11月制定「踏切道改良促進法」により、交通量、事故の発生状況等から指定された踏切道は、集中的な事業により改良が進められ、交通の円滑化が図られました。市役所前線と阪急電鉄が交差する「広田道踏切」も昭和37年2月にこの対象になり、それを受けて県・市・阪急電鉄の協議が重ねられました。その結果、広田道踏切だけではなく夙川-御手洗川間を全て高架にするという最終決定がなされました。
高架化工事着工は昭和40年3月、下り線高架開通は41年6月、上り線高架開通は42年3月のことでした。
この高架化工事により札場筋と立体交差する阪急電鉄の橋脚間が22mになるのに伴って、札場筋線の拡幅へ一気に動き出しました。

(左)北側に敷設した仮線に上り電車が走る。下り線があった場所で高架化工事が行われている。
(右)下り線の高架工事を進めている。

(左)下り線高架の工事が進んでいる。横を走る車両は下り線。
(右)下り線高架は41年6月に開通し、地上に上り線が走っている。

万博への道

昭和43年度、建設省(当時)は万博関連事業として国道171号改良を正式に決定しました。西宮市内の工事については、戦前に整備されていた甲武橋から青木町交差点間の拡幅と青木町交差点から阪急神戸線までの延長を建設省が実施し、阪急線から国道2号までは西宮市の区画整理事業として整備することになりました。


昭和42年頃
国道171号拡幅前の河原町付近。建設省直轄工事が行われることになった。


昭和37年
阪急電鉄札場筋踏切。写真は小・中学生の通学時間帯。付近に高い建物がなく、遠くには甲山が望める。


昭和43年
札場筋の国鉄(JR)ガードは幅6mだった。拡幅工事は43年11月に始まった。

建設省(当時)による国道171号拡幅工事

車道幅約9mだった“新西国街道”(国道171号)は昭和30年代のモータリゼーションの発達により、日に2万台以上の通行量があり、絶えず混雑していました。
万博関連事業として、建設省により西宮市内(阪急神戸線以北)の拡幅工事が本格的に始まったのは昭和44年7月。万博開催の9ヶ月前のことでした。

昭和44年 市政ニュース
昭和44年7月10日 市政ニュース第407号 

用地買収難航での遅れを取り戻すべく、万博開催までの短期間で突貫工事が行われました。その甲斐あって、工事は開幕までに無事完了し、昭和45年3月11日甲武橋東詰めで開通式が行われました。

西宮市による鉄北地区区画整理事業

国道171号と連結されることになった札場筋は、東西に店舗や住宅が立ち並ぶ幅員約6mの北行き一方通行でした。

(左)双葉温泉から東を向き、城ケ堀町方面を望んでいる。写真左側(北)に「ワシオ食料品店」、四つ角の右側には「洋服」「戎屋菓子店」の看板。店舗の並ぶ南北の通りは札場筋商店街。遠くに西宮球場が見える。
(右)現在はスーパーが入る常磐町公団住宅から札場筋商店街を北向きに写している。幅6m程の道に精肉店、書店、電気店等が建ち並んでいるのが見える。

(左)現在は山手幹線と国道171号が交差する、城ケ堀北交差点付近から南向きに撮影。写真右端には「双葉市場」の入口。活気あふれる札場筋は店舗が建ち並び、人と自動車と自転車が行きかっている。
(右)札場筋商店街の書店前。書店の奥には洋装店、道向かいに氷店が並んでいる。

市の鉄北地区区画整理事業により、札場筋の内、国道2号-阪急神戸線間は幅員22-27mに拡げる工事が行われました。また、将来的に東西に延ばす山手幹線の用地確保のほか、商店街の再整備、下水排水路や公園などの公共施設の整備等が行われました。

昭和44年2月に始められた工事は、東側の商店や民家155戸の立退き、立体交差する国鉄ガードの拡幅などで大いに難航しましたが、地元の協力などもあって、何とか万博開会式当日の3月14日に開通にこぎつけました。
札場筋線の拡幅は、建設省が進めていた国道171号の拡幅工事と結ばれ、南北の大幹線となりました。

万国博 171号をゾウが行進

万博では参加国ごとにナショナルデーを決め、国王や元首が臨席してそれぞれのお国ぶりを披露しました。タイのナショナルデーはシリキット王妃(当時)の誕生日、8月12日が選ばれました。そして、この日のためにタイからゾウの一団がやって来ました。

 
8月3日、はるばるタイから神戸港に降り立った16頭のゾウは、完成間もない国道171号を歩いて万博会場を目指しました。自動車の排気ガスに騒音、焼け付くように熱いアスファルト。雌の“ポーイ”が脚を痛め、中間地点の武庫川へは予定より2時間遅れでの到着でした。

約2万人の見物人が待ち受ける中、甲武橋下に降りて行きます。水を見た途端重かった足取りが軽くなり、小走りに近づいて鼻を使って水浴びしたり、草を食んだり。結局この日は武庫川で野宿することになり、翌8月4日朝に再び国道171号を歩いて会場へ向かいました。

 
万博に出演したゾウたちは、一ヶ月ぶりに武庫川に戻ってきました。帰路は万博会場で生まれた赤ちゃんゾウの「ひろばちゃん」も加わり、甲武橋は鈴なりの見物人で大にぎわい。往路と同じく武庫川で一泊し、9月4日の朝、再び神戸港に向けて出発しました。

現在の国道171号

明治以前に起こった“新西国街道”計画は昭和初期に進展し、戦後のモータリゼーションの時代到来、そして大阪万博開催を契機に片道2車線の幹線道路となりました。
平成7年1月17日に発生した阪神・淡路大震災では、国道171号の門戸陸橋が落橋しました。陸橋の下を走る阪急電鉄今津線は震災6日後の1月23日に復旧。通行止めとなっていた国道171号の開通は、震災1年を目前にした12月28日でした。
現在も京都方面につながる主要道路として日々多くの車が走っています。拡幅前の昭和40年調査で14,300台余りだった国道171号の自動車交通量は、万国博後の昭和46年調査で33,700台余り、平成27年には40,000台に迫っています。

(左)門戸陸橋西交差点歩道橋より西向きに撮影。手前に流れるの津門川。
(右)若山町交差点歩道橋より東向きに撮影。写真右奥に大市八幡神社の社叢(しゃそう)が見える。
【提供:西宮まちなみ発見倶楽部】

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