戦争体験談「戦争の記憶(思い出)」
更新日:2025年6月30日
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戦争の記憶(思い出)
宮島 建吾(87歳)
自己紹介
大阪市塚本生まれ 87歳です。戦争当時は二人兄妹でしたが、今は戦後に妹弟3人が生まれ5人兄弟の長男です。
2歳の時に西宮市甲子園三番町10(現パロス甲子園三番町)に移住しました。玄関前の東側(現グランドサンリヤン)には広い道がありました。家は2戸1の平屋で、戦争当時、家族は祖父母・父母・私と一つ下の妹・父方の叔父叔母3人の9人家族でした。
土地は北南西に広く(旧本州製紙所有地)、西には松林ばかりの小高い山がありました。(幅18m・長さ35m・高さ10m、現KOHYO甲子園店)キジもいて、フクロウとカッコウが鳴いていました。南端は防空壕の出入り口があり道の南は北郷公園です。小学校からは旧甲子園ホテルの2本の煙突と武庫川の堤防土手がよく見えました。
畑ではヒバリが鳴き舞い上がりました。この地域はあぜ道が多く、畑はお米・麦・さつま芋を植えていました。川は南北に幅大小6本、ふな・どじょう・うなぎ・青ヘビ・鬼ヤンマ、田んぼには、カエル・タニシ・ざりがに・ヒル・赤とんぼがおり、ホタルは手を伸ばせばわんさと捕れたものです。
夜にはJR甲子園口(旧省線)から汽車の汽笛と車輪の音がよく聞こえました。
戦後は、鳴尾中学1年(S25年)から、家の南方面に登校すると、上鳴尾地区は、ほとんどが長屋とバラック家でした。終戦直後、その辺は焼け野原でしたから。浜甲子園から香櫨園の海は遠浅で松林があり、中学3年生のころ迄、水泳ができました。夏休みは定期券を使って電車に乗ってよく海水浴に通いました。
戦争中の記憶(思い出) (S17~S20年8月15日)
A グラマン B 高射砲 C 焼夷弾 D 銀紙 E 防空壕 F 手旗信号
G 単発小型軍機落下(故障?) H 疎開(機雷)
A グラマン
鳴尾北小学校の1~2年生(月日記憶ナシS19年から20年の間?)の時、下校時、北の正門より、家のある西向きに一人で歩いていると、すぐに南南西の方から「ばりばり!」と大きな爆音がし、低い機影が襲ってきました。夢中で北西角の川の下のトンネル(土管が埋めてあるその中)に潜り込みました。音がやんでしばらくしてから外に出て「助かった」と思いました。怖かったです。他に児童がいたか、今は記憶がありません。(今は暗渠になっていて上は登校歩道です。)
B 高射砲
家の前の東側の道の真ん中に、知らぬ間に砲台が運ばれてきていました。(木箱のトロッコは国道に続きます。)子どもだった私は、黒い長い筒の上に、またがり乗って遊びました。1回も高射せず、戦後まもなく進駐軍が破壊しました。筒の根元の下に大穴があきました。うちの家の窓ガラスが全て割れて危なかったです。
C 焼夷弾
空襲の後、6角形径10cm・長さ5~60cmぐらいの空になった焼夷弾の筒が家より南地区(上鳴尾あたり)にゴロゴロと転がり、燃えカスのヒモが付いていて、焼けた油の匂いが未だに鼻につきまとっています。この匂いだけは、忘れようとしても、忘れられません。
D 銀紙
澄んだ青空の白い飛行機(戦闘機)から、キラキラと何枚も落下してくるのを2~3回見ました。空高くからキラキラと落ちてくるのは綺麗な光景で、未だ忘れません。怖くて一度も拾いませんでした。
何のために落としていったのかわかりません。あとで、電線に引っかけてショートさせるためかなと思いました。
E 防空壕
「西宮上空」とラジオ放送があり、同時に爆音がありました。放送があった時はすでに戦闘機は真上でした。その音を聞けば、ゲートルを巻いて防空頭巾をかぶり、防空壕に駆け込み避難しました。寝ているときが多かったです。私は置き忘れられ、そのまま寝ているときもありました。「よく寝ていたので起こさなかった」と母が言いました。母の言い訳だなと思っていました。
F 手旗信号
私の家の裏手の山の中間のあたりの頂上に松林があり、その隙間から、ゲートルを巻いた2~3人の大人が東方向に向かって、600m~700m先の武庫川堤防の土手の人と小型旗で交信していたのをよく見ました。私も家で何度もゲートルを巻く練習をしましたし、手旗信号の物真似をよくしました。今は、手旗信号は覚えていませんが。
G 単発小型軍機
戦争中に日本軍の小型軍機が、鋭い高い音をだしながら、東北方向に落下するところを見ました。昼頃のことで、友達の中島君の家の門前で頭上高く見上げました。故障でしょうか?そのあとどうなったかはわかりません。日本軍の飛行機が単独で落下したということです。
H 疎開(機雷)
5~6歳の時、母につれられ下関の親戚宅に1年間ぐらい疎開しました。行く道中、汽車は広島あたりで空襲のため、よく臨時停車しました。
疎開の間も、夜は家の前の丘山の防空壕に幾度も避難しました。下関にも空襲はあったのです。爆弾で友達も亡くしました。ある日の昼頃、海の傍の山中に落ちた不発の黒いヤリ付機雷(径50~60cm)を間近に見ました。見物人はいなかったです。
小学校に入学するために西宮の甲子園に帰りました。
戦後の記憶(思い出) (S20年8月16日~)
〇戦後1年間は空腹で、父と武庫川の土手の つくし・草・よもぎ・バッタ・さつま芋つる・すずめなどなんでも食べました。飼育していたウサギ二匹も肉屋に持っていき食べました。
〇進駐軍が入ってきましたが、軍人は上甲子園商店街の店で喧嘩し、北郷公園は良きデート場になっているのを見ました。
〇鳴尾の有名イチゴ畑は戦後4~5年後から栽培され、外に出ると空気全体が甘い香りでした。
〇甲子園球場の外野席から米国映画を見て、新曲発表「栄冠は君に輝く」を合唱しました。
〇小5年生(S24年)時に三番町から花園町(旧鳴尾相生町)に引っ越ししました。借り地には戦災で焼けた石垣、がれきが多く散乱し、父はリヤカーで捨てに行きました。焼けこげて茶色くなっている大きな石がごろごろしていました。
〇小5~6年生時だと思いますが、グラマンの機関銃の弾先を家の庭で拾いました。重い鉄の塊で、径4cm・高さ5~6cmの大きさです。書道の文鎮に使っていましたが、父に「爆発する」といわれ捨てました。
*** グラマン機の弾先・焼夷弾空・銀紙・手旗・ゲートル等々「今あればお宝だ!」
令和7年6月24日寄稿