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戦争体験談「記憶にない記憶」

更新日:2023年8月2日

ページ番号:38548277

記憶にない記憶

梶房 明子(78歳)

 今年も又「終戦の日」がやってくる。終戦記念日と言う言葉があるが、記念という文字は、ふさわしいとは思えない。
 焼夷弾の星降る雨嵐の中、1944年、昭和19年11月3日、明治節は、殆どが天気なのだが、その日は小雨がパラつく中、曽根崎で産声を上げた。
 当時悠長に名前等考えている余裕があったかなかったか定かではないが、明治節だから、明子。
 布団を、おくるみ代わりに巻いて、私を壁に立てかけてあったりする日々の中、爆風でガラスが吹っ飛び、私の布団に突き刺さり、夏ならここに私が今存在していないかも…又、大変な形相になっていたかも…と思うと、今も想像しただけで身の毛がよだつ。
 母は、おっぱいが良く出て、配給の粉ミルクは、足らなくて困っている人にあげたと聞いている。
 曽根崎の大空襲で焼け出され、その時、自分の家があった処に杭を打っておけば、後に法的に認められたそうだが、着の身着のまま焼け野原から命からがら逃げだすときに、そのような考えが冷静に出来た人がいたという事は、実に驚きである!
 

 我が家は全て失い、ここ、西宮の大井手町に古い一軒家を見つけ、移り住んだ。
 夙川公園を苦楽園方面に走っていく進駐軍のジープに向かって、子供達が「ギブミーチョコレート!」生まれて初めての英語が、こんな悲しい敗戦国の、物乞いの言葉になろうとは…。
 私は怖がりだったから、母のスカートの後ろに隠れて、ジープから投げられるお菓子など受け取る事は出来なかったそうだ。
 私は家があって実に幸せだったが、橋の下に、人が「橋下旅館」と悪口を言う、掘っ建て小屋に住んでいる人がいたようだ。
 

 あれから半世紀、経済成長期の後押しに、あんな時代に東京オリンピックが開催されたり、過ぎてみれば、アッ!と言う間の歳月、そして今、早、戦後78年目が目前に来ようとしている。
 私の満年齢と同じなのだ。
 

 記憶とは何と曖昧なものなのかとつくづく思うのは、親から聞きかじったことが脳裏にあり、こうして執筆していると、あたかもそれらが自分の覚えている体験談かの様に錯覚しているが本当は、現実の記憶はないのだ。
 遠い遠い過去を折に触れ、振り返る事で、我が家では犠牲者がいないだけ非常に幸せであるが、親たちの過ごした思い出の地が消失して、どんな想いだったであろうかと…。
 私が大きくなってから、親から、曽根崎ではね、梅田で小さい会社を営み、猟犬を飼っていて、ジステンバーにかかり高熱の犬が寒がるから、床で裸になって抱きしめて介護した話など、狩猟が大好きだった父の話題など、今もなお、唯一残っている剥製のキジを眺めながら、平穏な幸せなど、戦争と言う悲しい現実の下では、一瞬にして吹き飛ばされていく事を、戦争を知らない子供達に僅かでも垣間見て貰える機会になればと、思いつくまま書き留めてみた。
 

 終戦直前に生まれた私達の後は、産めよ増やせよ、敗戦国からの脱却へ向けて動き出した。
 

 継承していく大切な語り部は、いかに高齢化時代とは言え、日々消えて逝く。
 この悲しい出来事を風化させない為にも、後世に語り継がれていかなければならないと思っている。
 

令和5年7月18日寄稿


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