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戦争体験談「太平洋戦争と私」

更新日:2018年2月23日

ページ番号:37470994

太平洋戦争と私


武田 淳子(83歳)


 まず平和な、良き時代の事から。
 当時の名前は、「宮崎淳子」。誕生日は、昭和9年8月6日、東京の北区下十條の我が家で産声を上げた。あまりに小さかったので、両親や祖父母は心配したらしいですが、なんとか、すくすく育ちました。家族は7人、戦前は、何不自由無く豊かに育ちました。

 でも、昭和16年12月8日、パールハーバー・シンガポールを、宣戦布告をせずに攻め勝ちました。天皇陛下万歳と大騒ぎ、ちょう灯行列、このまま勝ち続けるのでしょうか?

 戦争が始まったのは、私が7歳で豊島師範附属小学校に入学した年のことでございました。これから、私達の貧しい苦しい生活の始まりにございました。受持、教生、別荘まで有り、何から何まで良く出来た学校でした。この学校を卒業したかったのに、戦争が激しくなって、千葉県の成田へ疎開、成田の小学校に転校。そんなある日、父「宮崎孝行」に召集令状が来ました。おめでとうございますと、おめでたいのでしょうか?

 その時の父は、毎日新聞の社員でした。父は、軍服を着て日の丸の旗をたすきにして、「祖母」(父の母)に別れの言葉と、少し寂し気に祖母の顔を何度も何度も見ながら、出かけました。私は小さな日の丸の旗を作って、婦人会の皆様と「勝って来るぞと勇ましく」の軍歌を歌って一心に旗をふり、父の無事を祈りました。「永遠の別れかな?」とも思いました。その後、「体格検査」、「甲種合格」。良くなければ外地に行かなくても良かったのかも知れません。慶応大学を出ていても、「士官学校」出ではないので、「二等兵、新兵」です。

 戦争が激しくなって、千葉県の成田へ。若松分店、「母の伯母」の離れへ「山小屋」のような家、「水道も井戸」も無いけれど、伯母だから、いろいろ良く親切にして下さると思ったのに、分店の方一族皆様意地悪でした。

 まず空襲にそなえて、母と2人でスコップや鍬で防空壕を作り、防空壕の中に、ゴザも無くて、ムシロとローソク、ローソク立て、マッチ等、不思議に蚊取り線香だけはあったのです。モンペや防空頭巾は、母の着物で夜なべして作って下さいました。母は、夜なべして長じゅばんを利用して、下駄の花緒を作り、物々交換で食材を求めました。お金が無い事は無いのです。父の月給はタンス預金ですから。でも、お金だけでは生活できない時代でございました。そんな世の中、なんでも配給でございました。食糧難で、食材は、サツマ芋と大麦、自給自足で、カボチャとキュウリ、主食は芋がけ、少しばかりの、塩としょう油、砂糖は無いので、化学調味料の「サッカリンとズルチン」、これで、味をつけるのです。

 一番大変だったのは、水汲みです。今のようにポリバケツでは無くアルミのバケツです。これに水を入れて何度か往復してやっと終わるのです。7歳です、分店のご飯炊きのおじいさんが「淳ちゃん、小さいのに大変だね」と時々「タクワン」を下さるのです。「タクワン」は大切な「おかず」です。

 空襲が激しくなって、夜の8時頃になると、警戒警報発令とサイレンが鳴り響き、私は祖母の手を引いて、母は弟の手を引いて、防空壕に飛び込みます。防空壕からチラッと見ましたが、米軍の大型戦闘機B29が低空飛行して、焼夷弾をポンポンと投下するのです。もし防空壕に落ちたら、一家全滅。もし山小屋のような家に落ちたら、野宿しなければならなかった。運が良かった。「神様のおぼし召しでしょうか?」

 本当に大変でした。こんな日が何ヶ月もつづくのですから、やりきれたものではありません。そしてとうとう大変な日が来てしまいました。昭和20年3月10日、東京大空襲の日です。運命の日です。

 母は父の月給をいただきに、有楽町の毎日新聞にいきますので、「淳子、留守をお願いしますよ」、私は「気を付けてね」。夕方、食事の用意をしようとしたら、ラジオから聴こえてきました。東京大空襲です。B29が連隊を組んで有楽町を攻め、有楽町の空は、火の海です。火の海ですと、有楽町、東京、神田あたりは焼け野原でしょう。とうとうその日は帰ってまいりませんでした。

 祖母と2人、まんじりともせずに夜が明けるのを待ちました。私は懸命に祈りました。11日、母はボロボロになって帰ってまいりました。本当に良かった本当に良かったと思いました。母は帰宅して4~5日で元気になりましたが、祖母が栄養失調と老衰で「ヨタヨタ」と。今では考えられないでしょう。

 いよいよ大変な日、昭和20年8月6日、朝8時15分、広島に原爆投下、8月9日、長崎にも11時2分原爆投下。きのこ雲が、もくもくとピカッと光りました。広島、長崎の町は一瞬にして、廃墟となりました。母と2人、「皆様なんとかご無事に」と祈らずにはいられませんでした。

 そして、昭和天皇の玉音放送で終戦となり、日本は負けたのです。その後、テレビで、ダグラス・マッカーサー元帥を拝見、ご立派な方でした。その後、昭和天皇のお姿を拝顔して、ご誠実でご立派な陛下と、10歳の私でさえお人柄が偲ばれました。

 あとは戦地から父が無事に帰国することを待ちました。祖母(父の母)は毎日毎日私の父(祖母の息子)を。「岩壁の母」そのものでございました。戦争とはこんな辛い悲しいものですよ。

平成29年12月14日寄稿


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