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戦争体験談「津山(美作千代)への疎開について」

更新日:2018年2月23日

ページ番号:11741075

津山(美作千代)への疎開について


岸本 房代


 昭和20年4月、戦争が激しくなってきて、西宮も空襲の危険が迫ってきました。私たち芦原国民学校3年生は岡山県の美作千代(久米町、現在津山市)に学童疎開しました。蜜厳寺(みつごんじ)という町外れのお寺に、女子35人で行きました(男子は別でした)。お寺の庫裏の2階で寝泊りしていました。引率は平内先生(40代男性)と、浜田先生(30代女性)の2人でした。

 持ち物は着替えのみで出発したような気がしますが、行きから泣いている子もいました。お寺から脱走して駅のベンチの下でつかまった子もいました。35人もいると誰がいたのか全員覚えていなくて、しっかりした子やごんたな子はよく覚えています。

 午前中に勉強もしましたが、主に畑仕事のお手伝いを毎日していました。田んぼでイナゴやバッタを採って、七輪で串刺しにして焼いて食べていました。

お寺の裏の畑でサツマイモを作っていましたが、収穫前に西宮に帰ることになったので食べられなくて残念でした。イモのつるはよく食べました。要領のいい子は、お寺の台所にある晩ごはんの残りをもらって食べていたみたいです。

 毎度の食事は鉦(かね)の食器を子どもたちが並べて、そこに給仕のおばさん2人がごはんを盛り付けていました。すばしっこい子は少しでも盛りの大きいところを見つけて、そこで食べていました。ごはんの量が少ないのでいつもおなかをすかせていました。おかずの足しにいものつる・イナゴ・バッタやねずみを採ってきていました。そのときに100回噛んで食べるように指導され、いまだに守っているので胃が丈夫です。秋祭りのときに2~3人で分宿し、ごちそうしてもらったのがうれしい思い出として残っています。

 お寺のお風呂に交代で入っていましたが、たまに地域のお百姓さんのおうちにもらい風呂に行っていました。昔はあちこちにお墓があったので、途中人魂が見えて怖くてあまり行きたくなかったです。

 西の方にB29が飛んでいくのを縁側でよく見ていました。みんなで西宮に爆弾が落ちませんようにと拝んでいました。

 西宮に帰ったのは10月くらい(柿の実がなっていた記憶があります)だったと思います。校庭に並んで親の出迎えを受けましたが、親が気づいてくれないくらい痩せていました。気づいたときのお母さんの泣き崩れた顔はよく覚えています。1つ下の妹(学童疎開は3年生からだったので西宮にいました)はそんなに痩せていませんでした。帰りのすし詰めの汽車の中で、3つ上の兄さんが柿を届けてくれたのもよく覚えています。

 つらい思いをたくさんしましたが、今ではいい思い出となっています。

平成29年1月18日寄稿

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