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戦争体験談「逃避行」

更新日:2020年9月25日

ページ番号:59719585

逃避行


長谷 一平(83歳)


 昭和18年、当時神戸の長楽小学校の1年生だった。米国のB29爆撃機による空襲は烈しくなる一方、近くに「ライジングサン」という石油貯蔵会社が有り、父が「近い内に此処も標的だろう」と言っていた。周囲の人達は疎開をしており、我が家も播州の親戚を頼ったが大勢で駄目。
 伯父が朝鮮の京城にある「京城駅」の駅長だったのでその方を頼って行った。
 雪の季節で電車が舞子駅で止まっている間に父が植木に積もっている雪を手掴みで握り「日本と暫くお別れの雪だ、食べろ」と言うので食べたが子供心にも胸が詰まった。
 京城の伯父が父の就職先と再婚の縁談を勧めてくれて別世界の生活が生まれた。

 日本人学校への転入もして暫く過ごしたが一年と少し位で父の職場が転勤になり、海州という38度線以北に引っ越した。海が直ぐ前で住み良い所。
 新しい友達も出来て遊んでいる最中、母に呼ばれて聴かされたのがあの「玉音放送」であった。

 数日後に朝鮮人が数人で日本人の住宅に乱入して金品や家財を強奪して帰ったが泣けなかった。大勢いたから他家も同じだろう。
 戦に負けるとはこんな事だろう、と思う
 更に凄いのは、数日後にソ連の兵隊が軍用トラックを連ねて来て女性を連れ去る、友達のお母さんや姉さんも・・・石垣を伝って逃げていた人は6連発の銃で撃たれたのも見た。子供には何もせず私の横にいた兵隊は私に黒い食パンをくれた。父は別の兵隊に銃を突き付けられている、母は数人の人と別の場所に隠れていて無事だったが実に異様な体験をした。

 その後幾日かして日本人は全部捕虜の様に一ヶ所に収監されて、この先どうなるのか不安だったが父が脱走を試み、逃避行が始まった。
 明るい内は見張りと張込みがいて捕まるか密告されるので防空壕に匿れて夜歩く、父が四ヶ国語が話せるので食品の調達や隠れ場所を調べていた様子。夜空の星を見て方角を決めていた。
 昼間に沼の様な池を渡る必要があり、私は身軽で渡れるが母が泥濘(ぬかるみ)にはまり私が助けた。
 橋には夜でも検問番がいるので鉄道の線路を歩いた。レールと土手の間は狭いので縦長で歩く。私が子供で歩いていて居眠りして転げ落ち、下に張ってある鉄条網に引っかかり、痛くて泣き出すところだったが素早く父が側に来ていて私の口を押さえていた。少しの痛みや出血は我慢。途中の建物からサーチライトで照らしていたので、光が来ると伏せていた。今思うと映画の様だが当時は命懸け。
 また次の関門が来た。鉄橋が有った、暗いのに枕木を一つ一つ跨いで歩くのだが母が踏み外して転落しそうになった、レールと枕木にしがみ付いているのを父が引き上げた。(後で父が「昼間だったらとても下まで深いから足が震えている」と言っていた。)

 また暫く歩くと平坦な道へ出て暫く行くと馬に乗った兵隊に出会った。実は米兵だった。連れて行かれたのはお寺でかなり沢山の人が居たがみんな収容された日本人の様子。
 38度線を南下して脱出に成功したのだ。食べ物を貰い薬も貰った。ありがとう。
 2日居て無蓋車に乗せられて釜山港から引揚げ船で門司港に着いた。出迎えの人が沢山いたが知らせていないのでうちは誰も居ない。
 神戸に帰ったが焼野原で何も無かった。

 父の行動力や利口さに感服と感謝。

 戦争は絶対しては駄目だ。

令和2年9月8日寄稿


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