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戦争体験談「故郷は火の海 街の全てが灰になった」

更新日:2018年2月23日

ページ番号:39296181

故郷は火の海 街の全てが灰になった
=第二次世界大戦と岡山県での疎開生活=


前田 豊(81歳)


1.戦争の中での生活の様子

 昭和20年春。私は10歳、西宮市立用海小学校の4年生でした。

 第二次世界大戦はたけなわ、というより日本の劣勢は明白ですが、実情は知らされず、「誰もが最後まで戦う」「降伏は恥、死んでも戦う」と思っていました。しかし現実は、毎日米軍機の空襲が繰り返され、日本中の主要な都市は壊滅状態になっていました。したがって、街では空襲に備える訓練や対策が行われていました。

 みんなが防空頭巾をかぶりゲートルを巻きます。列を作って並び、バケツリレーの訓練をします。防空壕を掘って大事なものをしまったり、空襲警報がなるとそこへ逃げ込みます。狭い道では逃げられないので、邪魔になる家は壊されたり動かされたりします。

2.日本中で激しくなる空襲ー空襲のないところへ疎開

 だんだん空襲が激しくなってきたので、小学生は安全なところへ移そうということになり、集団疎開が計画されました。西宮は航空機を作る会社や油を作る会社、製鉄会社や飛行場等があり、米軍から狙われる所が多かったので、いち早く疎開の対象になりました。兵庫県と岡山県の話し合いで兵庫県の児童は岡山県にお世話になることになりました。

 私達の用海小学校は、大原小学校にお世話になることが決まりました。4年生の男女と5年生の女子で合計約100名が、黒住教・金光教の本堂と公会堂で生活をすることになりました。姫新線で美作江見へ、そこからはトラックの荷台に載せられて大原に着きました。畠と田んぼが山に囲まれ、静かで平和な環境は全く初めての経験でした。

3.空腹と寂しさの疎開生活

 最初の2~3日はまるで修学旅行の気分でした。しかし、持ってきたおやつが無くなり、空腹が続くと、だんだん西宮が恋しくなり、親・兄弟のいないことが不安で寂しく、しくしく泣き出すことになりました。公会堂の縁側に並んで、西宮の方角を見ながらみんなで泣いていました。

 学校に行っても、授業はなく、寮に帰ってもすることもなく、ただただお腹がすいていました。たまに来る母からの手紙を見てはまた泣き、返事に書くのは食べ物の絵ばかりでした。空腹に耐えかねて悪いこともしました。学校の行き帰りに畠に入ってサツマイモやキュウリやトマトをこっそり頂きました。地元のおじさんに見つかり、縁側に座らされてお説教をいただきました。「人が一生懸命作ったものを盗み食いするのは悪いことじゃ!」と叱るおじさんの目に涙が溜っているのです。「親元を離れて寂しいだろう、お腹がすいてつらいだろう」と心の中で思いながら叱っているおじさんの気持ちが、大きくなってよくわかりました。

 大原町の皆さんはとても優しくしてくださいました。夕方お風呂を借りるのですが、いつも煎り豆やふかし芋をくださり、みんなで分けて食べました。

4.故郷では大空襲がー西宮の町は火の海

 昭和20年8月6日、真夜中から朝にかけて、西宮に米軍のB29という爆撃機が200機の大編隊を組んで空襲にやってきました。空が真っ黒になったと聞きました。南の海岸線から工場地帯を通り、民家や商店の多い地区にかけて西宮を縦断する形で、爆弾や焼夷弾を雨のように降らせていったそうです。

 町はみるみる火の海となり、人々はその中を着の身着のまま逃げまどい、山の手へと走って逃げたということです。道にも川にも焼夷弾は降り注ぎ、家は焼け、ビルも倉庫もすべての建物が燃え上って昼間のように明るくなったそうです。燃え盛る火の中を、焼け落ちてくる建物のかけらや柱を避けて山の方へ必死に走ったといっていました。

 「もしも、あのときにお前たちがいたら、きっと足手まといになって、逃げられずみんなが死んでいただろう」と後に母が言っていました。家族はみんなバラバラになり、各々が安全と思うところへ逃げるしかなかったのです。

 大原町に居させてもらったお陰で死なずに済みました。親・兄弟も、それぞれに逃げることができました。今日、こうして長生きできたのは、間違いなく大原町に疎開させていただけたおかげです。心からお礼を申し上げます、本当にありがとうございました。

5.見渡す限り焼け野が原ー学校もなくみんなバラバラに

 8月15日終戦、そして10月、大原町を後に私たちは西宮に帰りました。

 駅から見る景色は驚くべきものでした。プラットホームから見渡せば、西宮の西の端から東の端まで何にもなくなって広々とした広っぱが見渡せるのです。鉄筋のいくつかの建物が残る以外は、すべての建物が焼け失せて見渡す限りの焼野原です。

 私たちはといえば、駅まで迎えに来ている家族の誰かに連れられて、避難先へとバラバラで解散しました。学校は焼けて閉校、住む家はバラバラですから、旧友たちとはその場が最後で数年間は会えませんでした。

6.平和でこそできる発展ー戦争は最悪

 親たちは、住む場所・食料・衣服・こどもの教育・すべてが不自由な状態で随分苦労をしたようです。私達は、それぞれ避難したところに近い学校へ転校しましたが、生活が安定しないので勉強どころではなく、食べ物を作るために空き地を探して畠を耕したり、家で家事を手伝うことの方が多かったようです。

 西宮が大空襲で全滅した日が8月5~6日、その10日後に終戦でした。もう10日早く戦争をやめていたら、西宮はもちろん、沢山の街が焼けずに済んだのにと思うと残念でなりません。

 いずれにしても、戦争で良くなったり幸せになったものは何もありません。戦争は沢山の命を奪い、大切な文化を破壊し、すべての財産を奪い去ります。しかもそれは、自然災害と違い、人間が引き起こすものです。人間がしようと思わなければこんな不幸はおこらないのです。

 戦後70年、日本が復興と発展を続けられたのは戦争がなかったからです。どんな理由があっても、戦争をしてはいけません。何よりも悪い罪悪です。みんなが仲良く生きていけるよう「戦争はだめ!」を合言葉に、皆さんの力を合わせて幸せに生きてください。

平成29年8月9日寄稿

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