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戦争体験談「戦争の生き残りとしての思い」

更新日:2020年4月1日

ページ番号:33309006

戦争の生き残りとしての思い


鹿塩 健一(93歳)


 私は大正15年、西宮で生まれた。当時は、祖父母・両親・6人の兄弟の11人家族で暮らしており、用海尋常小学校卒業後、西宮市立商業学校に通学していたが、1年で辞め、祖父と父が行っていた漁業を手伝うことになった。当時の西宮(香櫨園浜や御前浜など)ではイワシやスズキなどの魚をはじめ、貝類やエビ、シャコなどがとれた。生活は裕福ではなかったが、戦中の食糧不足の折にも、漁業でとれたイワシを野菜と交換するなどをして生活をしていた。

 学校を辞めた後、3人で、昭和19年に父が軍属となってからは祖父と2人で漁業を行っていたが、その祖父も昭和20年2月に狭心症の発作で亡くなり、その後は弟と2人で行っていた。

 西宮が大空襲を受けた昭和20年8月5日。妹の1人は岡山県に疎開していたため、祖母・母・5人の兄弟の8人で暮らしていた。夜半に空襲警報がなり、家族全員で東川まで逃げたのがよかったのか、全員怪我もなく、無事であった。しかし、自宅に戻ってみると付近は焼け野原で自宅も全焼していた。その後は敷地にバラックを建てて住んでいた。付近の道端や川にはむしろを掛けられた死体が並べられており、数日たってもそのままの状況であった。

 自宅の近くには工場や軍需品を所蔵していた酒蔵などがあったため、空襲の対象となったのではないだろうか。

 幸運にも防空壕に置いてあった漁業関係の道具類や漁業に使用していた船は空襲で焼けることはなかった。終戦後も漁業を行おうとしたが、海の汚染などの影響により、かなわなかった。

 昭和20年4月、親に内緒で書類に押印し、募集をしていた海軍予科練に応募し、特攻隊にも志願していたが、空襲や原爆被害により、従軍することはないまま、8月15日の終戦を迎えた。

 終戦時には、日本が負けてくやしいと感じた。学校教育では、大きな領土をのせた地図が示すように、日本は今まで戦争に負けたことがない、負けたら終わりと教えられていた。

 空襲で家財も焼失し、当時所有していたラジオも失っていたため、玉音放送を聞いた記憶はないが、日が経つにつれ、新聞などで徐々に終戦を認識した。日本が負けたとはっきりと意識したのは、昭和20年9月、西宮にアメリカ軍が進駐し、砂浜の上を車で走っていた時である。アメリカ軍に負けると殺されると教えられていたが、そんなことはなく、煙草をもらうことができた。

 終戦から長い時間が経過したが、ラジオで聞いた昭和16年12月の太平洋戦争勃発時の大本営陸海軍部発表は現在でもそらんじることができる。

 現在93歳、当時のことを多くの方に知ってほしいと思います。

令和2年1月9日寄稿

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