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戦争体験談「少女たちの太平洋戦争」

更新日:2021年9月21日

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少女たちの太平洋戦争


宇井 りか(旧姓 湯川)


 私は大正15年、和歌山県本宮村に湯川家の5人兄弟の次女として生まれました。長女が、かよ。三女が、より。四女が、やす。末っ子が涓次(けんじ)でした。父の義成(よししげ)が薬剤師であったため、姉のかよは小さい頃から医学を志して、日本赤十字社和歌山支部病院救護看護婦養成所に入学、卒業後は赤十字病院に勤めていました。


 母の岩江は東京の大妻技芸学校で裁縫学を修めた方で女子教育に熱心でした。次女の私は新宮高等女学校に入学、卒業後は同校の専攻科に進学しました。奈良市の師範学校の入学を目指していました。三女のよりと四女のやすは新宮家政女学校に入学し、家政学を学んでいました。涓次はまだ小さく本宮小学校と旧制中学校で学んでいました。


 本宮村は熊野本宮大社の門前町の人口約700人の小さな村でした。中州では小学校の運動会が開かれ、母も乳母車に娘を連れて見に来ました。運動会では借り物競争があって、くじを引くと「白いだるま」や「赤いだるま」と書かれていて、それを借りてきて、持って走りました。一等賞は鉛筆とノートでした。当時はそれがうれしかったものでした。


 叔父で歯科医師の湯川義隆は新宮市に住んでいため、私は叔父の家に下宿して新宮高等女学校に通いました。女学校のレベルは高いものでした。英語の授業のときに教師が用紙を配布、黒板に書かれた英文を和訳したり、和文を英訳したりしました。授業後は校庭に集まり、体操してから帰りました。放課後、同級生と一緒に新宮城跡を散歩したり、団子屋で小さな団子を食べたことを覚えています。


 父は本宮村の村長を任されるようになり、大忙しになりました。私は夏休みには本宮村に帰り、田んぼの手伝いをしました。父は薬剤師であったため、薬草に詳しく、山に様々な薬草を採りに行きました。ドクダミ草を花が咲く前に摘んできて、煎じて飲んでいました。束の間の休みには熊野川でアユ釣りをしました。父は明治生まれの大正モダンボーイで山高帽やカンカン帽にスーツ姿でした。夏着は麻の白いスーツに水色のネクタイ、冬場は緑色と茶色のスーツというお洒落な方で、村の人々からは「兄さん」と呼ばれていました。


 本宮村は平和でのどかな村でしたが、昭和16年に太平洋戦争が始まると、戦争の影が村全体を覆うようになりました。和歌山連隊の軍が本宮の熊野川の河原で演習を行いました。村の各家に兵士2人ずつ泊めるように命令が出ました。我が家には将校が下宿しました。本宮小学校の同級生の柴崎君は航空隊のパイロットになりました。柴崎君はゼロ戦に乗り、本宮村の上空を3回旋回しました。皆で集まり、手を振りました。本宮村の若い男はみな徴兵されるようになりました。本宮大社に赤いたすきをかけた出征兵士が戦勝祈願のため参拝に来ました。叔父は「国を思う道に二つはなかりけり、戦の庭に立つも立たぬも」という短歌を詠みました。皮肉なことに、この短歌の通り、戦地に行く者も、戦地に行かぬ者も戦争に巻き込まれていきました。


 昭和19年秋、私は女学校の専攻科在学中に和歌山市内の軍需工場での勤労を命じられました。学徒勤労動員といって当時の女学生は全員、軍需工場で勤労することを国に命令されていました。長女のかよは陸軍病院で働きました。三女のよりも明石市にある軍需工場で飛行機の機体に鋲を打つ作業をしていました。四女のやすは京都の山科の軍需工場で働きました。末っ子の涓次はまだ小さいので本宮の家にいました。私が働いていた軍需工場では飛行機のエンジンの部品のようなものを組み立てていましたが、なにしろ素人の女学生が作業するので、難しいものでありました。ドライバーで組み立てるという細かい作業をしていましたが皆不慣れな手つきでした。工場には座る椅子がなく、一日中、立ったままで作業していました。作業中に気分が悪くなり、救護室に運ばれる人もいました。


 寮は木造で7人の女学生が寝起きしていました。布団は木綿のぺんぺらぺんの布団で、よくあんなもので寝たものだと思います。食事は1日に2回でしたが、白いご飯などありませんでした。朝におもゆ、という水のようなおかゆがあり、晩に麦飯がありました。おもゆは普通のお米のご飯とは違う、何もかも入れたものなので、消化が悪く、おいしくないものでした。皆お腹がすいていましたが、どんぶり一杯の半分くらいしか食べることができませんでした。寮と工場を行き来するだけの毎日でした。毎晩のように「家に帰りたい」と泣く人がいました。父は和歌山県庁に何度も出張していました。差し入れで、あんこの餅を20個も寮に持ってきてくれた時は感激して、皆で分けて食べました。父から本宮村で神社の御供え物が盗まれている、と聞きました。戦争は人の心も荒らしたのです。


 昭和20年7月9日夜、寮で寝ていると、空襲警報のサイレンが鳴りました。あわてて外に出ましたが方角がわからず、どこに逃げたらよいのかわかりませんでした。女学校の同級生と相談して、とにかく山の方に逃げようと田んぼの中を通りました。途中で、和歌山城の天守閣が空襲で焼け落ちるのを目撃しました。「あ、和歌山城がやられた!やられた!」と叫んだのを覚えています。工場も寮も全て空襲で焼けた後、終戦となりました。防空壕の中で「もう負けたで、帰り」と寮母さんから帰りの交通費をいただきました。皆戦争が終わったことを喜んでいました。ようやく家に帰れると思いました。


 女学校に戻ってみると、空襲で校舎は全壊していました。校舎は四方をコンクリートの塀に囲まれた大きなものでした。米軍は軍事施設と勘違いして攻撃したのだと思います。この女学校への爆撃で数十人もの方が亡くなりました。また新宮駅前には大きな2つの穴があいていました。駅舎を攻撃したのだと思います。


 私は青春を戦争で無にしました。もう二度と同じあやまちは繰り返して欲しくないと思います。


平成30年9月12日寄稿

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