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戦争体験談「我が人生を顧み、今思う」

更新日:2021年9月21日

ページ番号:35266022

我が人生を顧み、今思う


匿名(96歳)


 私は、昭和10年3月、田舎の小学校を卒業し、同年4月、県立中学校に入学。この中学校は県立とはいえ、非常に小さな学校で、1学年50人の5年制でした。中学時代の想い出は5年生の時、全国の中学校以上、1校当たり10人ずつの生徒・学生が宮城前広場に集合し、天皇陛下の御前で分列行進をしたことと、3年生の時に大病を患い、4年生の2学期の後期試験まで登校出来ず、留年は避けられたが、4年終了時の高校受験を諦めた悲しい想い出です。

 昭和15年3月、中学校を卒業し、同年4月、旧制高等学校文科乙類に入学。乙類とは第一外国語がドイツ語で、週10時間以上の授業がある。当時高校は、受験生の憧れであり、白線帽にマントを羽織り、高下駄を履いて肩を組みながら町を練り歩き、広場ではかがり火、その周りをストームと称して踊り狂う様を何故か当時の市民が許した時代でした。また、授業も単に科目履修だけでなく、各授業の初めに今読むべき必読書を教えて頂いた時代。高校の履修年限は3年。ところが、突然2年と1学期終了をもって卒業となり、昭和17年9月卒業。かくして、昭和17年9月、高校を卒業し、同年10月に将来司法官を夢見て帝国大学法学部法律学科に入学。そして、1年が経ち、期末試験を終え、2回生としての新年次を迎えた昭和18年10月、文科学生の兵役徴収延期を停止、即時徴兵検査を受け、入営となる。いわゆる、学徒出陣。徴兵検査で甲種合格、昭和18年12月、歩兵第42連隊に入隊。学徒集団だけで連日厳しい軍事教練。翌年4月、甲種幹部候補生として久留米陸軍予備士官学校に第11期生として入校。この久留米での訓練は実に厳しいもので、暑い最中での訓練後、帰営の際も駆け足かつ大声での軍歌、暑い盛りの飲み水も制限等、それは厳しいものでした。

 やっと9月に入り、これから少しは涼しい中での教練となる矢先、南方軍予備士官学校に転属を命じられ、昭和19年9月中旬、門司港出港。大雨の中、乗船。船室狭く、立ったまま睡眠。乗船人員が多く、本当に狭い船室、持参した将校行李もずぶ濡れ。中の昭和刀も錆。出港後、既に戦局は我に利あらず、昼は島影に、夜だけ航行。台湾を後にして、バーシー海峡に入り、敵の魚雷が我が船に命中。幸運にも、珍しく不発弾。命拾い。そして、間もなくマニラに到着。上陸当日は、道路に天幕を張り野宿。次の日からは小学校に宿泊、敵機の襲来を度々受ける。1週間後、さらにマニラからシンガポールに向け乗船。シンガポールで10日間程度滞在の後、乗船。そして最終目的地のジャワ島に上陸し、木炭燃料の汽車に乗り、目指す南方軍陸軍士官学校のあるスマランに到着。2か月程度要しての長旅で士気も低下、翌年4月に卒業するまで厳しい訓練の連続。そして、将校勤務の見習士官として、新任地に向けスマランを出発。新任地はベトナムのサイゴンで、勇兵団の古在隊。この時、勇兵団はビルマ戦線で苦戦の末、サイゴンへ向けて引揚げの最中。私が苦労の末、サイゴンに到着した時、先発の大隊本部だけは存在し、その宿舎に投宿。本隊到着まで他部隊へ預けられ、しばらく投擲筒の陣地構築に従事。その後、本部より大隊本部に帰るよう連絡を受け、当番兵とともに本部に帰って本隊の帰りを待つ。

 敗戦当日、本部より本日の正午に広場に集合との告知あり、例の敗戦の詔勅を聞くこととなる。敗戦を聞くと同時に、将校故切腹と思い、刀の錆でさぞかし痛いだろうと直感。しかし、その後そんなこともなく過ぎた。その後直ぐ古在隊も到着し合流。既に敗戦の部隊は為す事も無く、サイゴン近郊を数回転地し、最終サイゴン市内に定着し、進駐軍の作業に従事。進駐軍への奉仕は帰国まで続く。サイゴン港の倉庫作業が多く、先に帰る復員船を度々見送った。そして、年越え昭和21年の5月、復員命令を受け、武装解除し乗船。船足鈍く、日本まで9日を要し、23日に鹿児島に上陸。温泉のある小学校に宿泊、翌日汽車に乗り帰省。やっと2年半に及ぶ軍隊生活が終了。帰国後、学年初めの10月から再度復学。当時帝国大は東北、名古屋等の大学よりの編入者が多く、大学としては早く整理する必要があり、一定の(少ない)科目履修者は卒業させることになり、私も翌年の22年9月卒業。お粗末法学士誕生。当初考えていた司法官の任官は諦めた。これ以上親に負担をかけるわけにはいかず、終戦当時の花形は繊維と鉄であり、繊維を選んだ。その後引退まで3ヶ所の会社勤めを終えて、平成28年11月、94歳で引退。

 以上、長々と私の経歴を述べたのは、現在に生きる青年諸君はこの私の経歴の時代とは違う社会に生きる自由を感謝し、平和な日本に生まれたことを感謝し、純な青春の心根を失わず、時代の要請に応えて欲しいからです。

 しかし、今の時代がいいことばかりではない。何が時代の要請かについて2つ例をあげよう。その1つは少子化対策で、それを解決するためには人工知能や情報技術を駆使して、生産機械の自動化やロボットの利用、省エネ農業の推進等、若者への期待は本当に大きい時代の要請があるからです。もう1つは地球の汚染です。時代の要請とともに、人はこの地球を汚染。その結果、天は怒り、海も怒り、氷は解け、各地に大災害を発生させています。これも若者に期待して子孫のために解決しなければならない重大な問題です。どうか青春時代の純なる心根を失わず、次の時代に生きる人々のため、ご尽力願いたいと思い、恵まれた日本に生をうけた若者に期待すること、切なるものがあります。最後に次の詩を、若き日の純なる心を持ち続けて精進いただきたく記します。


ふるさとの
作詞 三木 露風  作曲 斉藤 佳三

ふるさとの 小野の木立に 笛の音の うるむ月夜や 
少女子は あつき心に そをば聞き 涙ながしき 
十年経ぬ 同じ心に 君泣くや 母となりても

平成30年8月1日寄稿

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