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戦争体験談「”父との別れと父からの手紙”」

更新日:2021年9月21日

ページ番号:71314303

”父との別れと父からの手紙”


宮内 幸子


 父は財閥系の鉱山会社に勤務し、軍属として今では隠れリゾート地として賑わう、インドネシアのビンタン島に派遣され、航空機製造の最重要資材のボーキサイトを開発し日本に送り出す仕事のために派遣されました。当時東京に母と11歳から2歳の5人の姉妹を残して、昭和18年12月の旅立ちでした。私は5人姉妹の4番目で秋田県で生まれ、父と別れたのは4歳で、父のことはあまり覚えていません。

 母と私たち姉妹は親戚のいる笠岡市(岡山県)に疎開し、父の苦労も知らずに近隣の友達などと元気に走り回って遊ぶ毎日でした。幼い心にも配給品の受け取りなどを手伝う中で生活も苦しくなりつつありましたが、空襲もなく日本が戦争で苦境にある事も知らないで過ごしていました。

 戦争が悪化する中、父にも帰国命令が下りました。戦局が悪くなる中、すべての人が内地へ帰りたがっていましたが、長い南方勤務者の順に選ぶことが強く要請されていたとのこと。父は家庭の事情(東京にいる妻と5児のこと)が心配で同僚から乗船権(帰国の権利)を譲ってもらい、特に乗船を許されたこの時の父の大喜びの気持ちが想像できます。

【国際協定の大きな矛盾】
 『阿波丸』は戦時中でしたが、日米両政府が『安全航行』を認める『緑十字船』で船体を真っ白に塗装し、船腹の緑十字の9ヵ所を明るく照らし、一路日本への航海を続けていました。

 阿波丸には2,000名を超える日本への引揚者と9,800トンの貨物を積載し、昭和20年4月1日午後11時頃、台湾海峡を通過しようとしている時に安全通行を保障された阿波丸に米国の潜水艦が魚雷4発を発射し、3分で沈没させられました(国際条約の大きな矛盾を腹立たしく思います)。乗船していた父は39歳、母は37歳で5人の子供と共に残され、戦争未亡人となりました。母の心境を察すると残念より悔しい思いで胸がふさがれます。

 戦後、東京都の増上寺(東京タワー近く)の門を入った所に海底の藻屑となった2,045人(資料によっては2,070人)の碑が建立されました。

 阿波丸は大阪商船所有で1万2千トン、日本と連合国との間に協定ができていて、日本占領下での捕虜及び抑留されている敵国の人々、約17万人に救援物資を送り届けるという心温まる使命を果たした後に、日本への最後の安全な船として、非戦闘員を乗船させる条件だったのです。

【父からの手紙…】
 父の手紙は、母が亡くなった昭和63年に手にすることができました。

 私は光栄ある名誉ある日本一の仕事に昼夜没頭し航空機製造の最重要資材であるボーキサイト鋼を増産して、敵をやっつけることが出来るようにと頑張っている。今お父さんの全精神を打ち込んでやっている仕事は、ボーキサイト開発で責任はこの上なく重大です。お父さんの光栄は一家の光栄と責任です。

 皆元気で留守を守って下さい。「姉妹仲良くお母さんに孝行するのですよ」此の手紙が着いたら「お父さんだよ」と言って子供達一人宛頭を三べんずつ撫でてやりなさい。等と母と子を思う心情が綴られており、沢山の手紙の言葉のみが父の形見となってしまいました。手紙にはビンタン島での生活の様子が書かれ、「自分のことは心配ない、子供達に十分気をつけてほしい、又再々子供の発育の様子を知らせてほしい」とも度々書かれています。

 父は手紙の中で「美に対する目を開け、衣食住全てに美を見いだし美を作り出せ、女の子を美の中に育てよ、よき行儀、よき言葉、よき話、窓辺の景色など心がけ一つで人生の楽しみは限りなく増えてくる」とあり、今では私の心情にしています。

平成28年10月13日寄稿

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