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タイトル第24回特集展示なるおのしんでん開発  なるおのしんでんかいはつ展示場の様子

第24回特集展示「鳴尾の新田開発」
平成15(2003)年9月30日→12月28日

>>第1期 鳴尾村の新田開発 9月30日→10月26日
 
第2期 砂浜新田と砂浜神社 10月28日→11月30日
>>
第3期 新田の開発 12月2日→12月28日


タイトル第2期すなはましんでんとすなはま神社
第2期 砂浜新田と砂浜神社

砂浜新田の開発と砂浜神社の建立
西宮町人辰馬氏は、古くから西宮戎神社の氏子として奉仕してきた。代々農業を営んでいたが、寛文6年(1666)頃からは酒造業も始めた記録がある。
 4代目与三左衛門主計は、西宮浜の庄屋も勤めたが、元文3年(1738)より鳴尾村中津に砂浜新田の開発を始めた。また、その地にあった神明社の古祠を復興して砂浜神社とし、翌年神祇伯白川雅冨王の公認を得て、主計自身が神主の辞令を受けた。その後、桜町天皇の御冠を拝受し、御神体とした。
 元文から文政年間(1818〜1829)ごろまで、主計ののち主殿・主税と相続したが、主税のときに辰馬氏の引退によって、土地の神社として存続することになり、大正元年には上鳴尾の八幡神社に合祀された。
 砂浜神社が建立された当時には多くの寄進品があった。その一部が今日に残されている。

第2期すなはましんでんとすなはま神社展示場の様子

展示資料解説

1. 覚(砂浜神社建立)
  元文3年(1738) 辰馬夘一郎氏文書13

 砂浜神社の拝殿と鳥居を建立するにあたり、作業の経過を日記形式で書き上げている。工程だけでなく、建築のための入用金や、使用された材木についても知ることができる。
 これによると、元文3年(1738)4月上旬に鳴尾村庄屋理右衛門へ拝殿建立を届け出て、4月12日に工事が始められた。9月14日には代官が砂浜新田へ来訪し、工事の様子を見て、自らも寄進すると上機嫌になったという記述もある。その一方で、新開(砂浜新田)と古開(砂浜新田より先に開かれた土地)との境目について、西鳴尾の百姓たちと協議をしている。



2. 砂浜神社境内図
  年代不明 辰馬夘一郎氏文書41

 砂浜神社境内の配置図。簡略な墨引き図だが、現在は失われた砂浜神社の姿をうかがうことができる。



3. 神祇伯雅冨王朱印状写
  元文4年(1739)6月11日 辰馬夘一郎氏文書16

 辰馬氏所持の砂浜新田にある神明社と砂浜鎮守の二座について、神祇伯雅冨王が承認したときに出されたもの。これは写しだが、本状には朱印が押してあった。
 雅冨王は当時の神祇伯。平安時代後期から神祇伯を代々世襲した白川家は、伯家、伯王家とも呼ばれていた。江戸時代になると、吉田家の吉田神道に対抗して伯家神道(白川神道)を提唱し、配下の諸社、入門者を増加させた。



4. 伯家許状(烏帽子着用)
  元文4年(1739)6月11日 辰馬夘一郎氏文書16

 砂浜神社の神事に関して出された、白川伯家よりの許可状。
 雅冨王の時代は、宝暦4年(1754)に伯家の記録の集大成『伯家部類』を編纂し、教学の拡充に努力するとともに、吉田家と同様、神拝式に対する許状、烏帽子・浄衣の許状など、様々な許状を出し、教線の拡大をはかっていた。



5.伯家許状(木綿手繦)
  元文4年(1739)6月11日 辰馬夘一郎氏文書39

白川伯家よりの許可状。



6. 遷宮次第
  元文5年(1740)2月23日 辰馬夘一郎氏文書17

 遷宮の儀式の進行について神祇伯雅冨王より出された式次第。



7. 桜町天皇御冠神納状案紙
  寛延3年(1750)9月 辰馬夘一郎氏文書33


 辰馬氏が書いた、桜町天皇の冠の神納状下書きである。これによると、砂浜神社の成立した元文4年(1739)か5年頃に、かつて神祇伯雅富王が拝領した冠を申し受けた。それ以来、10年あまりの間、辰馬氏は夜中に拝んでいた。神祇伯から直接神納された冠は他の社寺の寄進とは違うことを主張するため、改めて神祇伯に神納状をしたためてもらおうとしたと思われる。

8. 桜町天皇御冠
  年代不明 辰馬夘一郎氏文書

 砂浜神社の御神体で、桜町天皇が着用していた冠とされる。桜町天皇は享保20年(1735)〜延享4年(1747)に在位。



9. 一札之事(砂浜神社を鳴尾村より譲渡)
  元文4年(1739)12月 辰馬夘一郎氏文書15

 鳴尾村より辰馬氏へ砂浜神社を譲り渡したときの書類。
 これによると、砂浜神明宮というのは古くからあった神社であるが破損したままであった。それを辰馬氏が砂浜新田開発のおり、修復することになったと思われるが、もともと鳴尾村の神社であるため、大坂町奉行所への届け出は鳴尾村より行われている。奉行所の吟味の上、許可が出たので、神明宮は辰馬氏によって修復された。修復された神明宮は村から辰馬氏へ譲り渡すこと、辰馬氏は神主として鳴尾村へ移ってくることを、再び大坂町奉行所へ届け出て、正式に辰馬氏へ譲り渡された。
 神明宮(社)とは、天照大神および伊勢神宮を祀っている神社のことで、全国各地に鎮座している。古代より神宮の神領に鎮座していたが、江戸時代では土
の鎮守神として祀られることも多かった。



10. 寄進留(神社寄進品目録)
  年代不明 辰馬夘一郎氏文書119

 砂浜神社へ寄進された品物の目録。
 近隣村人から贈られた、樹木、灯籠をはじめ多数の寄進品が書き上げられている。当時の砂浜神社の規模の大きさがうかがえる。



11. 法眼大岡春卜 全国名所絵図 大隅国
  年代不明 辰馬夘一郎氏文書127

12. 法眼大岡春卜 全国名所絵図 信濃国
  年代不明 辰馬夘一郎氏文書127

 砂浜神社への寄進品、全国名所図絵のうち「大隅国、「信濃国」。
 大坂の絵師大岡春卜に全国68国の名所を1ヶ所ずつ描かせ、その名所に相応する古歌をそれぞれ堂上公卿に依頼して染筆させた。これに対する高辻大内記家長の漢文序1幅、花園従二位実廉の和文序1幅をもって、全70幅を揃えた。現在は漢文序、和文序を含め44幅が残っている。
 大岡春卜は大坂画壇の重鎮である。狩野派の画法を骨格としながら、中国画など多彩な画技の持ち主で、絵手本を数多く出版する一方、京都寺院の襖絵なども手がけている。



13. 梁田兌厳 神明社記
  宝暦5年(1755) 辰馬夘一郎氏文書118

砂浜神社への寄進品。梁田兌厳は播磨国明石の儒者。



14. 岡白駒 宝物礼賛文
  延享4年(1747) 辰馬夘一郎氏文書120

 砂浜神社への寄進品。
 岡白駒は播磨国網干の医者。今津に7年、西宮に20年ほど滞在した。今津の大観楼を築いた飯田桂山などの文化人と交流があった。



15. 乍恐口上(神宝披露の日数延期願)
  宝暦2年(1752) 辰馬夘一郎氏文書19

 砂浜神社の神宝披露の期間を、3月16日から4月5日まで行うことで大坂町奉行所から許可を得ていたが、さらに5日間延期したいと願い出ている。提出日が4月であることから、神宝披露が当初の予想より好評であったのだろうか。



主要参考文献
魚澄 惣五郎編『西宮市史』第2卷(1960年発行、西宮市役所)
新修大阪市史編纂委員会編『大阪市史』第4卷(1990年発行、大阪市)


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