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![]() 「西宮古地図大観」にようこそ >>ポスターレイアウト指定図 >>はがきレイアウト指定図 >>館前柱巻き看板レイアウト指定図 |
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このたび、西宮市立郷土資料館では、特別展「西宮古地図大観」を開催します。当館では、江戸時代以来の古地図を多数収蔵していますが、そのなかでも、西宮地方の歴史を知るため、とくに重要なものを選んで展示します。江戸時代の地図には、現代の地図のように等高線やケバをつかった地形の精密な表現はありませんが、ひとつの地図に求められる情報を絵画的・鳥瞰図的な方法で巧みに表現しています。地図に描かれてきた西宮地方を、どうぞご覧ください。 |
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江戸時代の西宮町を描いた古地図に「西宮町浜図」といわれるものがある。「町」は西宮神社の門前、街道沿いに発達した「町方」、「浜」は海岸に向けて新しく発達した「浜方」を指す。また、西宮町は明和六年(一七六九)を境に、尼崎藩領から幕府直轄領になり、町を支配する役所も「陣屋」から「勤番所」になったことが知られる。町の拡大や役所の名称の移り変わりなどから、西宮町浜図は、町浜図a→町浜図b→南波図→葛馬図の順に年代を追って並べられる。 |
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西宮町浜図には、道路の食い違いや川筋のくわしい描き方など、共通点があるが、それぞれに異なるところも見られる。町方と浜方を塗り分けた図、多数の貼り紙がある図、夙川の上流をくわしく描いた図、西宮港を描いた図など、それぞれの地図に必要なものを選んで描いていることがわかる。 |
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江戸幕府は、慶長九年(一六〇四)を初回として、諸国の大名から国絵図を徴収し、それに基づいた日本総図の編集を、四次にわたっておこなった。初回、慶長国絵図の幕府に提出された正本は現存せず、控図、写図が肥前、長門など、数枚が残っている。摂津国絵図は、摂津国奉行片桐且元が調進者となって進めたものであることが知られる。 |
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生瀬は、丹波・播磨と摂津を結ぶ街道の要衝として元和初年ころ(一六一五ころ)、幕府によって宿駅に指定された。生瀬浄橋寺に伝わる「浄橋寺文書」三七〇〇点余は、宿駅関係史料を豊富に含んでいて、地方の宿駅制の成立から崩壊までの様子を克明に知ることができる。 |
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生瀬は、丹波・播磨と西宮・大坂とを結ぶ街道の、幕府指定の宿駅で、村内の多くの家が荷物の輸送業務に携わっていた。生瀬を経由せず、有馬から灘へ直接六甲山を越える「間道」を通る輸送が頻繁になると、指定宿駅の特権を脅かすものとして、生瀬宿から間道廃止願いが提出された。 |
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江戸時代の絵図のおおくは、行政上重要な文書として作成された。
村は藩の行政の単位であって、各村の庄屋は、村内の石高や戸数、他村との境界などを図示するために、絵図を作成して、文書とともに役所に提出していた。多く絵図は、一定のルールに基づいて作成されており、絵図の作成が統一的におこなわれたことを示している。 |
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江戸時代に作られた耕地を把握する文書に検地帳がある。村では検地帳に加えて、田畑を図示する絵図を作成した。田畑をはじめ、道、河川、水路、池、堤防や、新田開発によって新たに田畑となった場所を着色によって表し、田畑の面積や所有者、生産高を明示した。絵図の余白には絵図作成責任者らの署名があり、公用図として機能していたことがわかる。 |
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江戸時代には、耕地の拡大によって、耕地、山野や水路、水源の帰属問題など、しばしば境界に関する論争が生じた。論争の解決は役所の裁許によって行われたが、絵図はその根拠となる重要な公文書であった。絵図は、絵師が、役所提出用、論争当事者らの保管用に複数枚作成し、これに当事者の署名、場合によっては役所の裁許印などが押印される。 |
謝辞
特別展開催にあたり、左記の方々のご協力を得ました。お名前を記して感謝の意とします。(敬称略・順序不同)
浄橋寺/廣田神社/礒永和貴/川村博忠/田富卓治/中島貴美子/中山 隆/西井 璋/三浦真樹/箕面崎康子/三好唯義