 |
 |
| 教行寺 |
 |
文明7(1475)年、本願寺第8代宗主蓮如上人(れんにょしょうにん)がこの地に暫(しばら)く留まられた折りに村内の中山(現在の卵塔場(らんとうじょう))に草堂(そうどう)が道場として建てられましたが、これが教行寺(きょうぎょうじ)の創建とされています。
その後、富田(とんだ)(高槻市富田町)に、富田教行寺を開いた蓮如のもとへ名塩の村民が訪れ、中山の草堂を仏閣となし住持(じゅうじ)をすえ常に法要を聴受したいと願い出ました。
蓮如は、第19子の連芸(れんげい)に教誨(きょうかい)を命じます。しかし名塩は山峡の村で、生活物資にも乏しく、寺を設けても維持永住が出来ないであろうと案じた連芸に、村民は「全村あげて檀家となり、春、秋2回に、米及び麦を3升ずつ、さらに初穂米を1升寄進します」と、当時の食生活からしては破格の条件を提示したところ、蓮如はこれを承諾し、連芸が名塩に赴任しました。
連芸は村民の生活安定を計るため、法話をしながら農地開発を説き、人々は村を挙げて開発や開墾に従事したとのことです。やがて中山道場は名塩御坊(ごぼう)と呼ばれ寺名も名塩教行寺となりました。
以後、連芸の子孫が代々これを嗣(つ)ぎ、その間に羽柴(はしば)(豊臣)秀吉をはじめとする有名武将から送られてきた文章等の貴重な資料が多数保存されています。
こうした名門の寺院だけに、京都の公家や名家との婚姻関係も深く、元和(げんな)年間(1615〜1624)には毛利元就(もとなり)の孫娘藤が、連芸の孫准超(じゅんちょう)のもとへ嫁いできています。
境内の玉垣(たまがき)で囲まれた大杉の枯れ木は、蓮如上人の「お箸杉(はしすぎ)」と呼ばれ、上人の遺徳を偲(しの)ぶよすがとして親しまれています。 |
|
 |