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紅野芳雄「考古小録」
〜西宮考古学のパイオニア〜
1998/7/25→8/30
西宮市立郷土資料館第13回特別展
展示案内図録
目次
紅野芳雄/表紙
辰馬悦蔵「跋」/前見返
考古小録/1
遺跡の発見/2
紅野芳雄が採集した石器/6
遺跡をあるく/8
66年ぶりの再会/11
目次・おもな展示資料・おもな参考文献/12
図・スケッチ集/裏表紙
本書は通覧して誰しも先づ気づくのは、故人が上代の遺跡遺物の探究に非常に熱心であったことであらう。従来知られてゐるこの辺の多くの遺跡に度度と足を運ばれたのは申すまでもなく、新聞紙上などに新しい発見の記事でも載ると早速現地を踏査したことも屡であって、甚しいのは朝刊ならばその日に、夕刊ならば翌日にといふ風なのも珍らしくなかったらしい。尚西宮を中心として山野を跋渉し、今まで殆ど知られていなかったこの地方の石器時代の遺跡を数多く発見し又、古墳などを調査しときには発掘などもせられてゐる。石器時代の遺跡の如きあまりにもその数が多いので宛もあらゆる場所がすべて遺跡であるかのごとくにさへとられる位だ。かくしてこれらの得られた成果を、直ちに巧みな挿図を付した簡明な日記体を以て記したのが本書の主要な部分である。これ等の記事に載っている遺跡の多くは君自ら親しくその地を踏んだものであり、遺物の多くは君自ら採集したものであり、しかも記されたのは調査、採集の直後である。即ち所謂一等史料に他ならない。掲載されている遺跡や遺物の地域・種類・数量などが左程広くも多くもなく、記述また簡単に過ぎないけれど、学的価値の存するのはこの点にありと思はれる。殊に日一日と遺跡の湮滅に帰し、遺物の散佚する現今当地方の如きに於いては、本手記の記事によってのみ独りありしを偲び得るものすら乏しくはない。今日既に然り、況や明日をや。本書は少くも西宮を中心とする地方の上代の考古学的研究をなさんと志す人人にとっては、よい手引草となり或は昔談りをして呉れるものといふべきである。
-----------辰馬悦蔵「跋」(部分)『考古小録』-----------
考古小録
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紅野芳雄(明治26年−昭和13年)は、のちに西宮町長に就いた紅野太郎の長男として西宮にうまれ、明治44年茨木中学校を卒業後、浪速銀行西宮支店に勤務、大正8年から昭和13年まで酒造業の経営にあたった。大正6年から昭和13年まで、遺跡踏査活動や、考古学に関する覚書などを連綿と記録しつづけたノートが「考古小録」全3冊である。このノートを、昭和15年、紅野芳雄、吉井良尚、田澤金吾らが興したのち一時中断していた西宮史談会の復活に際し、田岡香逸らが中心となって一冊の本にまとめたのが、『紅野芳雄遺著 考古小録』である。
『考古小録』からみた紅野芳雄の活動は、採集資料との対象が可能な点、西摂地方一帯の土地開発がいちじるしくなる直前の遺跡の分布状態を記録した点、今日しられる当地域の重要な遺跡を発見している点で、重要である。
「考古小録」全3冊およびその姉妹版ともいうべき「考古図譜」「考古雑録」には刊本で割愛されているおおくの挿図がある。それらは、遺存する採集遺物との照合が可能な原寸大の図や、遺物の散布状況から遺跡の範囲が推定できる略地図など、「考古小録」のさらなる理解と当地域の考古学研究に不可欠である。
「考古小録」にしるされた最後の踏査記録は昭和13年4月20日で、22日に筆記されたものという。3日後の25日、病気のためになくなっている。享年46であった。
本図録では、紅野芳雄が残したノートを「考古小録」とし、のちの刊本を『考古小録』として区別して表記する。
遺跡の発見
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紅野芳雄は50箇所以上の遺跡を踏査しているが、その中には彼が最初の報告者となった遺跡がふくまれている。六軒山(ろっけんやま)遺跡、越水山(こしみずやま)遺跡、柏堂(かやんど)遺跡、仁川高台(にがわたかだい)遺跡、上ヶ原新田墓地(うえがはらしんでんぼち)遺跡、打出岸造り(うちできしづくり)遺跡、武庫庄(むこのしょう)遺跡、仁川五ヶ山(にがわごかやま)古墳群などである。このうち、六軒山遺跡、柏堂遺跡、上ヶ原新田墓地遺跡は、最近の発掘調査では遺物が出土することがすくなく、おおくの遺物包含層がうしなわれてしまっているものとみられる。仁川五ヶ山古墳群は、発見された4基のうち1基は昭和34年ころに破壊されてしまった。仁川高台遺跡や越水山遺跡、打出岸造り遺跡、武庫庄遺跡は最近までの発掘調査によって、重要な遺跡であることが判明してきた。これらの遺跡は、『考古小緑』の記述をもとに現代の遺跡分布地図に登載されている。
■越水山遺跡
越水山遺跡発見は、『考古小録』によれば、大正2、3年より前、とされているが、「考古小録」ほか紅野家にのこる記録からは、その年月を特定することはできなかった。踏査記録は68回におよび、「岩ヶ平」とならんでもっともおおい。当地域の代表的な弥生時代、古墳時代の集落遺跡である。遺跡は、「考古小緑」、「考古雑録」によれば、現在の大社小学校北側までひろがっていることがわかる。当時は住宅地造成工事の最中で道路端のあちらこちらに遺物包含層が露出していたらしい。越水山遺跡の遺物分布図が3枚、断面図が1枚のこされていて、紅野芳雄がこの遺跡における遺物分布につよい関心があったことをしめしている。今日までの発掘調査では、丘陵南端の西田公園付近以外には、顕著な遺構や濃密な遺物包含層は検出されていない。
■六軒山遺跡
「六軒山石器時代遺跡の発見は大正2年終か大正3年始と思はる。」とあり、あるいは、「回顧すれば大正元年の頃余が偶然発見して以来・・・」ともある。「考古小録」には、大正6年8月25日が初見で、「石鏃残片共四箇外に磨製石器残片一箇収得す。」と記録され、以降30回にわたって踏査の記録がある。六軒山遺跡の踏査は大正7年前後に集中している。紅野芳雄は、大正9年3月10日「今やこの古き遺跡も西宮土地株式会社の経営地となり盛に土を掘り石を積み道路を布設しつつあり」、さらに、大正14年の記録に、「澤山あった柿の木は伐採せられ遺物包含の廣大な地域は地表下二三尺平均の深さに土砂を取り去られ、あとは礫石まじりの赤土の原となって居る。」と、柿畑であった六軒山遺跡が住宅地化によって破壊された様子をしるしている。
■仁川高台遺跡
昭和7年2月17日に発見された弥生時代の遺跡。『考古小緑』には、「仁川北岸五ヶ山の遺跡」として30回の踏査が記録されている。現在は、仁川「五ヶ山」遺跡はさらに西方の五ヶ山古墳群と重複する弥生時代遺跡をさす。仁川高台遺跡では、発掘調査が6次にわたっておこなわれ、数棟の竪穴式建築が確認されている。当時は「鶴ヶ丘住宅地」造成工事中で、敷設中の道路の路肩地表下5寸から1尺5寸の深さに遺物をみつけている。遺物を発見した道路部分は、これまでに遺構が検出されている部分とかさなっていることからみて、紅野芳雄は、遺跡内を綿密に踏査したことがわかる。
■柏堂遺跡
柏堂遺跡は、昭和6年11月15日、「大社村柏堂の南を西より東に走る夙川支流の南丘陵上にて、欠損せる逆刺式石鏃(三葉形式ノ名ハ改ム)壱箇及びサヌカイト片四箇を採集す。新発見の遺跡なり」としるし、そののち3度踏査し、石鏃4点、サヌカイト片、須恵器を採集している。紅野ののちも遺物が採集されたとつたえられるが、現地はすでに旧地形がうしなわれている。角石町から苦楽園二番町にかけての丘陵上にあたる。
■上ヶ原新田墓地遺跡
上ヶ原新田墓地遺跡は、昭和7年1月21日にサヌカイト片、弥生土器片を発見して「石器時代の一大遺跡」である、とし、同24日以降37回にわたる踏査をおこなっている。遺物は大部分がサヌカイト片、石器および弥生土器であって、地表下6寸から1尺の深さにあるとしている。同遺跡上およびその東方に17基以上の古墳があることを確認している。それらはのちに上ヶ原古墳群とよばれるもので、遺跡踏査中に、古墳群が住宅地造成のため破壊される様子を記録している。それら古墳にはつよい興味をしめしてはいない。
■仁川五ヶ山古墳群
仁川五ヶ山古墳群も昭和10年10月24日に彼が発見した遺跡とかんがえてよい。古墳時代後期の14基あったといわれる古墳群で、組合式石棺や馬具が出土している。最大の2号墳石室は長さが10mあまりをはかる大型石室。「考古小緑」には、標高130mないし140mの山の背に古墳が4基遺存しているのを、ただしく記録している。こののち、昭和34年に第1号墳が土取り工事で破壊されてしまった。
■打出岸造り遺跡
昭和9年3月14日、岩ヶ平を踏査したのち、道路建設工事現場に遺物包含層を発見している。この日「弥生式土器」破片を採集し、石器、サヌカイトをみいだせなかったものの石器時代の遺跡とみとめている。翌15日、20日、7月8日、11日、18日、昭和10年7月18日、8月2日、8月18日、29日、30日、9月1日、9月3日、9月11日、9月27日の15日19回の踏査でおおくの土器を採集し、遺物出土地点とその土層図や採集した遺物の実測図を作成している。遺跡は、採集遺物がごく少量の石器とおおくの「弥生式土器」であったこと、『考古小緑』の挿図に、石鏃と遺跡位置図・土層図、土器波状紋の拓影のみが掲載されていたことから、漠然と弥生時代中期ころの遺跡と認識されてきた。
■打出岸造り遺跡出土土器 芦屋市教育委員会保管
最近、芦屋市教育委員会が実施した発掘調査によって、典型的な「庄内式」甕形土器が出土し、古墳時代前期の遺跡であることが確認された。ひるがえって、『考古小緑』から、土器には無紋のものがおおいこと、石器は遺物包含層からは出土していないこと、高杯がおおいことなどがよみとられるし、「考古小緑」には、刊本で割愛されていた、古式土師器とかんがえてよい土器の実測図があった。
紅野芳雄が採集した石器
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遺物のうち石器は、奥様が、当時の百貨店商品券用の桐箱に厚紙と綿でつくったマットをしつらえ、糸でしばりつけて保管し、土器は室内のガラスケースに陳列していた。採集遺物の点数はもうすこしで1000点に達するほどであったという。昭和20年の空襲ののち、石器および金属器の一部が西宮市鞍掛町の自宅焼け跡からひろいだされた。土器はそのときにうしなわれた。ただ、「考古小録」ほか数冊のノートと日誌は疎開していたため焼失をまぬがれたという。紅野芳雄は、ことのほか石器に興味をいだいたようで、「考古小録」第2冊の途中から、ノート欄外に脚注のかたちで採集石器の数の累計をはじめる。
紅野芳雄が採集し、空襲の焼け跡からひろいだされた遺物の大部分は西宮市に寄贈され、郷土資料館に保管されている。
遺跡をあるく
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『考古小録』をよむと、紅野芳雄の踏査活動にいくつかの傾向がみいだせられる。採集活動には、2度のピークがある。大正7年前後と昭和9年前後である。大正7年ころには西宮地方においてくりかえし踏査した遺跡は六軒山(ろっけんやま)遺跡だけであり、おおくは、三島、中河内の遺跡、あるいは東京、奈良の帝室博物館や東大寺など、はばひろい関心のあったことが察せられる。その後一度踏査回数は減少するが、昭和初年にはふたたび増加し、昭和9年には47回の踏査記録がある。岩ヶ平(岩ヶ平(いわがひら)遺跡、朝日ヶ丘遺跡、八十塚(やそづか)古墳群)、越水山(こしみずやま)遺跡、上ヶ原新田墓地(うえがはらしんでんぼち)遺跡、仁川高台(にがわたかだい)遺跡、武庫庄(むこのしょう)遺跡など当地方の遺跡に集中しており、遠方への踏査記録はない。『考古小録』をみると、遺跡踏査活動は当初ひろい地域を対象とし、しだいに当地方の主たる遺跡につよい関心をよせるようになったことがわかる。
■岩ヶ平
『考古小録』によれば、岩ヶ平周辺を68回踏査した記録がある。遺物採集地点は旧岩ヶ平集落を中心に現在の岩ヶ平遺跡、朝日ヶ丘遺跡および八十塚古墳群、東西約500m、南北約1000mの広範囲におよぶ。朝日ヶ丘遺跡は、旧石器時代、縄文時代、岩ヶ平遺跡は、縄文時代、弥生時代、八十塚古墳群は古墳時代後期に属する。最初の踏査記録は、大正7年3月10日「精道村岩ヶ平山中の各古墳、芦屋川上流に於ける石器時代遺跡及び芦屋法恩寺を踏査す。」とある。以降68回の踏査記録があり、越水山遺跡とならんで、紅野芳雄がもっともおおくたずねた遺跡である。
■朝日ヶ丘遺跡
朝日ヶ丘遺跡は、標高50m前後の六甲山麓にある。ナイフ形石器、尖頭器をともなう旧石器時代末および、瀬戸内地方を中心に分布する土器、黒曜石を含む石材を使用した石器を主体とする縄文時代前期の遺跡である。なお、当遺跡におけるナイフ形石器のうち、もっとも古く編年できるものは、昭和4年10月18日に紅野芳雄が採集した「未成石錐壱(或は此で既成であるかも不知)」と記録した国府型ナイフ形石器である。
■芦屋廃寺
芦屋廃寺は芦屋川右岸、阪急芦屋川駅の西方約300m付近にある。明治41年以降数次にわたって発掘調査が実施されてきた。白鳳時代の古瓦をはじめ、奈良、平安以降江戸時代までつづいた寺院の跡である。紅野芳雄は、大正4年5月16日に芦屋廃寺をおとずれ、「神戸上水道導水管を精道村西芦屋字西ノ坊に敷設中古瓦続々出土、本日現場に至り奈良朝後期の古瓦一及び布目瓦多数を採取す。法恩寺跡のものなり。」と記録している。その後、大正7年3月10日、大正12年4月6日にも踏査している。
■芦屋廃寺出土古瓦 芦屋市教育委員会保管
昭和42年から43年にかけて3次にわたって実施された発掘調査時に出土したもので、合計5888点をかぞえる。芦屋廃寺の創建年代をしめすとかんがえられている白鳳時代の軒丸瓦、甎から江戸時代の軒丸瓦までふくまれる。奈良時代から江戸時代まで継続していることから、当地方における古瓦編年の標識となっている。
■津門稲荷山古墳
津門稲荷山古墳は、JR西ノ宮駅東方500mの国道2号線沿いにあった前方後円墳である。紅野芳雄は、大正3年12月25日に津門稲荷山古墳と、稲荷山同様前方後円墳とつたえられる津門大塚古墳の痕跡とされる大塚池の実測図を作成している。大正8年11月28日の記述には、現JR線敷設時に土砂採取のため消滅した鬼塚の伝承を記録している。平成6年、津門稲荷山古墳所在推定地における西宮市教育委員会実施の発掘調査によって、円筒埴輪が出土したが、遺構にともなうものではなかった。古墳破壊時にほりかえされた土砂がかろうじて残存していたものとみられる。また、昭和52−53年ころ、この南方約150mの住宅建設現場で円筒埴輪をはじめ須恵器、土師器など、大量の遺物が採集されている。この埴輪と津門稲荷山の埴輪は若干の型式差があり、6世紀以降の須恵器をおおくふくむことから、津門稲荷町周辺に複数の古墳があった可能性がたかい。
■津門稲荷町採集埴輪 辰馬考古資料館所蔵
昭和52−53年に津門稲荷町在住のかたが自宅の近所の住宅建設工事現場で、大量の円筒埴輪、須恵器、土師器などを採集している。このうち埴輪が、辰馬考古資料館所蔵となっている。埴輪には、盾形とおもわれるものがふくまれている。
■津門稲荷山古墳出土円筒埴輪 西宮市教育委員会保管
平成6年の発掘調査で出土。埴輪のほか、須恵器、鉄斧がある。これら古墳時代遺物にくわえて、前期弥生土器およびそれにともなう遺構が検出され、周辺が弥生時代前期にさかのぼる遺跡であることが判明した。
■岡田山遺跡
大正7年2月11日に「甲東村門戸桜井邸後にて、有紋埴輪残片数箇収得。尚同邸前後の畑地に埴輪円筒破片無数散乱せるを見て此の地に円筒を有する古墳ありしを知る。」が初見である。以降、埴輪ほか古墳時代遺物の採集に関する記述はなく、もっぱら石器を採集したことがしるされる。昭和5年から6年にかけて、神戸女学院移転工事により消滅してゆく遺跡の記述がみえる。昭和6年10月15日には「神戸女学院の建設工事大に進行し遺跡は遂に壊滅し終れり。」としたあと、岡田山遺跡採集の遺物を列記している。それによると、石鏃、石錐、石包丁、埴輪、須恵器など50点程度を採集していたことがわかる。
66年ぶりの再会
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紅野芳雄は遺跡の踏査に情熱を傾けたが、ときおり、博物館や博覧会を見学したり、西宮史談会主催考古博覧会や、武庫地方郷土史料展覧会などに出品したりしている。
大正6年宝塚新温泉での宮川氏所蔵加茂遺跡発見石器土器の展覧会、大正9年2月12日、13日東京帝室博物館、大正8年11月30日奈良帝室博物館、昭和7年10月1日濱寺農業博物館内の本山考古室などを見学し、おおくのスケッチをのこしている。本山考古室の資料は関西大学博物館におさめられていて、そのうちの石鏃1点を紅野芳雄のスケッチした石鏃と同定することができる。
また、田澤金吾氏ら同好家や古物商とのあいだで、石器や埴輪の交換、売買をおこなった。田澤金吾氏とは、遺物の交換や売買を何度もおこなったことがうかがえ、ときには、本箱と遺物を交換した記録がみえる。田澤氏の採集した遺物はおおく京都大学総合博物館に伝蔵されている。
越木岩下新田出土石鏃 関西大学博物館所蔵(旧本山考古室)
おもな展示資料
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紅野安雄氏所蔵
「考古小録」原本(第1冊〜第3冊)」
「考古図譜」
「考古雑録」
『考古小録』(ナンバー001)
「日誌」
紅野芳雄採集遺物
紅野芳雄遺影
芦屋市教育委員会保管
芦屋廃寺出土遺物
朝日ヶ丘遺跡出土遺物
打出岸造り遺跡出土遺物
関西大学博物館所蔵
旧本山考古室西宮市内遺跡出土遺物
京都大学総合博物館所蔵
越木岩遺跡出土遺物
岡田山遺跡出土遺物
辰馬考古資料館所蔵
津門稲荷町出土遺物
西宮市立郷土資料館所蔵
紅野芳雄採集遺物
西宮市教育委員会保管
津門稲荷山古墳出土遺物
仁川高台遺跡出土遺物
具足塚古墳出土遺物
仁川五ヶ山古墳群遺物
越水山遺跡出土遺物
関西学院構内古墳出土遺物
岡田山遺跡採集遺物
おもな参考文献
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末永雅雄編 1935年『本山考古室要録』
紅野芳雄著 1940年『考古小録』
魚澄惣五郎編 1959年『西宮市史 第1巻』
京都大学文学部編 1960年『京都大学文学部博物館考古学資料目録 第1部』
京都大学文学部編 1968年『京都大学文学部博物館考古学資料目録 第2部』
武藤誠 有坂隆道編 1967年『西宮市史 第7巻』
武藤誠ほか編 1976年『新修芦屋市史 資料篇1』
森岡秀人・木南アツ子編 1997年『平成7年度国庫補助事業 阪神・淡路大震災復旧・復興に伴う埋 蔵文化財発掘調査概要報告書』(芦屋市文化財調査報告書第28集)
本展の開催にあたって、おおくのかたがたのご協力をたまわりました。
ご芳名をしるし、お礼もうしあげます。(五十音順 敬称略)
紅野安雄
芦屋市教育委員会 芦屋市立美術博物館 関西大学博物館
京都大学総合博物館 辰馬考古資料館
池田直子 石野照代 上田 睦 梅本素子 大利孝治 奥出由香 片岡亜紀 北原 治 木南アツ子 久保ふく子 高井悌三郎 中谷由利子 中西邦子 永野 香森岡秀人 森下章司 矢口裕之 矢野健一 山口卓也 山中一郎 和田秀寿
紅野芳雄「考古小録」
〜西宮考古学のパイオニア〜
西宮市立郷土資料館第13回特別展展示案内図録
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編集・発行 西宮市立郷土資料館
〒662-0944
兵庫県西宮市川添町15番26号
電話 0798-33-1298
発行年月日 1998年7月25日
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