平和への取組

平和資料館

西宮市平和資料館所蔵資料の紹介

更新日:
2017年3月27日
ID:
23796

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西宮市平和資料館で所蔵している資料の一部を紹介します。

A.戦争への道程・開戦

 詔書

 日本は昭和8年(1933年)、国際連盟を脱退して国際的孤立を深め、昭和12年(1937年)には日中戦争が始まりました。日中戦争が長期化するにつれて、アメリカやイギリスなどと日本との関係は悪化していきました。また昭和15年(1940年)、ドイツ・イタリアと軍事同盟が成立することによって、アメリカとの決定的な対立関係に入ることになりました。
 昭和16年(1941年)12月8日、日本軍はアメリカ海軍基地があるハワイの真珠湾を奇襲攻撃するとともに、イギリス領であったマレー半島に上陸し、太平洋戦争が始まりました。

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B.出征前・銃後の家族や郷里

 応召の会 衣料切符

 戦争が長引けば長引くほど、たくさんの兵士が必要になります。徴兵する条件もどんどん改められ、まだ歳の若い男子にまで召集令状が届くようになりました。名誉なことと胸を張る者、行きたくないと泣いた者、心中はさまざまであったでしょう。家族も一家を支えてくれるはずの男性を次々と送り出すことは、どんなに不安だったことでしょう。しかし、人々は国や家、子どもたちを守るために、この困難を乗り越えなければなりませんでした。

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C.戦場の兵士

寄書日章旗 鉄カブト

 戦場の恐ろしさは、戦争を知らない者にはなかなか伝わりにくいものです。国を、家族を守るという使命感をもって戦いながら、いつ死ぬかわからない恐怖。たくさんの若者が起床から就寝までの行動を共にし、厳しい規律で管理された軍隊生活に耐えていました。
 その中で、千人針などのお守りや国から時折届く家族の写真や手紙が、どれほど心の支えになったことでしょう。

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D.戦争の経過

 戦没軍陣の遺骨出迎え・招魂祭

 日本軍は、東南アジアから南太平洋にかけての広大な地域を占領しました。しかし、昭和17年(1942年)6月のミッドウェー海戦の敗北によって、日本軍は甚大な被害を受け、太平洋戦争は長期化しました。
 国民の戦意は新聞や雑誌等により高められました。情報は政府の統制化に置かれ、国民には正確な戦況すら知らされませんでした。

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E.空襲

空襲直後の市街地 日本国民に告ぐ

 西宮市は終戦間際の昭和20年(1945年)5月から8月にかけての5回の空襲を受け、多くの方が亡くなりました。
 特に第5回空襲では、数機編隊で波状攻撃が加えられ、文字どおり焼夷弾・爆弾の雨がふりました。火柱は市中いたるところに立ちのぼり、猛烈な火炎が夜空をこがして、爆発音や対空砲火がとどろきました。一夜が明けると、市の南部市街地はほとんど全滅するという悲惨な姿に変わっていました。5回にわたる空襲による西宮市の罹災面積は全市面積の18.4%にのぼりました(面積では、神戸市に次いで県内第2位)。

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F.終戦

ゼロ戦の残骸

 広島や長崎への原爆投下、ソ連の参戦などを受け、日本政府はポツダム宣言を受諾し、約4年にわたる太平洋戦争は終結しました。しかし、食料不足やインフレ、シベリア抑留など、戦後も多くの課題が残りました。

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G.未来へむけて

親子広島バスツアー 灯ろう流し 

 西宮市では、昭和58年(1983年)12月に「平和非核都市宣言」を行い、世界中に核兵器の廃絶を強く訴えるとともに、平和を愛する社会をはぐくみ、築くことを目的として、市内の各種団体が加盟する原水爆禁止西宮市協議会とともに平和啓発事業に取り組んでいます。

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