市のプロフィール

西宮市史

西宮小史

更新日:
2013年5月13日
ID:
1174

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 西宮市は、六甲山地をはさむ北側盆地・南側丘陵地・平野等地勢上、明確な区分が存在し、それぞれに自然環境が残されています。市域の形成史からは、西宮・大社・甲東・瓦木・鳴尾・生瀬・名塩・船坂・山口の旧町村ごとにまとまりがみられます。また、農業、漁業、林業、酒造業、製紙業等伝統的生業が地域ごとにあり、特色ある文化財が伝えられています。農村地帯であった大社・甲東・鳴尾は、近代には郊外住宅地として発展しました。近代住宅地を覆うように市域全体の急激な都市化が進行するいっぽう、種々の祭礼を仲立ちとした旧来の地域における人々のつながりが継承、維持されていることも明らかになっています。
 このページは、西宮地方がたどってきた歴史の概要を記しています。

地形と地質

【地形】
 西宮市は、南は大阪湾に臨み、それに向かって南流する武庫川、夙川の扇状地である武庫平野に市街地が広がっています。この標高10m以下の扇状地北西には、比高10〜20mの崖(がけ)を伴って、階段状の台地である標高約70mまでの段丘が広がっています。
【段丘】
 段丘は、下位より、満池谷累層(まんちだにるいそう)・香櫨園累層・甲陽園累層などの大阪層群及び伊丹礫層が露頭する低位段丘、上ヶ原礫層が露頭する中位段丘、五ヶ山礫層が露頭する高位段丘からなります。それら段丘は、気候の寒暖と地盤の隆起沈降を繰り返した結果により形成された地形です。例えば、満池谷累層には、寒冷期の植物遺体が含まれるラリックス層や、温暖な気候を示す化石が含まれるアデク層などが認められます。
【東六甲断層帯】
 南西から北東方向に走る東六甲の断層帯のうち、甲陽断層が中位段丘の背後にあり、それのさらに北側に芦屋断層があります。甲陽断層と芦屋断層の間には先の段丘礫層等が階層状に見られます。また、花崗岩からなる標高200m前後の通称北山山塊があり、その中央付近には、噴出した安山岩がドーム状を呈する標高約309mの甲山がそびえています。芦屋断層を挟んで北側には、基盤岩花崗岩からなる六甲山が急峻な斜面を形成しています。六甲山最高点は、931.3mに達します。最高点を挟んで南側に五助橋断層(ごすけばしだんそう)、北側に六甲断層が走ります。
 ここから北に向かって地形はゆるやかに下ります。五助橋断層に沿った武庫川の支流太多田川の上流付近以北は神戸層群が堆積し、周囲を有馬層群が露頭する山塊が取り囲む三田盆地を形成しています。三田盆地には、六甲山を水源とする有馬川が北流します。三田盆地の東部には塩瀬断層が東西に走り、それに沿って名塩川が東流し、武庫川に合流します。
【河川】
 海浜は、東六甲の山塊に発して南流する河川が急峻な山地や段丘崖を下りながら花崗岩を主体とする山体を浸食し、急激な地形変換点を経て平野部に至り急速な堆積によって形成した扇状地の末端にあたります。砂浜は、夙川、宮川、御手洗川などの河口に堆積した花崗岩を起源とする砂礫と、それらが大阪湾の潮流によって運ばれ、堆積したものです。

気候と自然災害

【気候】
 西宮地方は、六甲山地を境として南北で気候が異なります。南部西宮地方はいわゆる瀬戸内気候区に含まれ、六甲山地が北西の冬の季節風を遮るため温暖で晴天に恵まれており、「住みやすいまち西宮」の大きな要因となっています。
 月別に西宮南部の温湿度をみると、7月、8月は温度湿度とも最も高く28度75%前後の平均気温湿度であるいっぽう、1月、2月は5度65%と最も低くなります。5月は平均気温約18度湿度68%であり最も過ごしやすい気候といわれます。風は北寄りの風が最も多く南寄りの風がこれに次ぎます。
【天然記念物の植物】
 市内では、西宮神社の社叢ほか社叢林3件と巨木5件のほか、甲山湿原、広田神社のコバノミツバツツジ群落が県または市天然記念物に指定されています。社叢林はクスやカシ、シイ等常緑広葉樹を高木層とし、場所によってはクロガネモチやヒメユズリハなどが加わります。甲山湿原は、かつて六甲山地域に多く点在した湿原のひとつで、ヌマガヤ-チゴザサ群落の暖地性湿原です。
【自然災害】
 比較的温和な気候下にある西宮南部地方においては、台風及び集中豪雨による洪水、高潮、土石流などが発生し、たびたび甚大な被害を与えています。昭和9年9月に近畿地方を襲った室戸台風により暴風と豪雨に加えて高潮が発生し、西宮市南部は甚大な被害をこうむりました。死者及び行方不明者22人、重傷者13人、流失・全半壊家屋462棟、浸水家屋5,274棟、堤防の決壊と樋門の破損も著しく、浸水面積は275.2haに及びました。
 その後も、昭和10年には梅雨期の集中豪雨による水害、昭和13年には阪神大水害と呼ばれる梅雨期の集中豪雨がもたらした土石流・山崩れ被害などが続きました。大戦後も、昭和25年ジェーン台風、昭和26年ルース台風、昭和36年6月豪雨、昭和36年第2室戸台風、昭和40年23号台風など、たびたび大規模な水害をこうむっています。とくに、ジェーン台風では、再び大きな高潮が発生し、室戸台風被害以降に改修された防潮堤を越波、破堤しました。
 平成7年1月17日、兵庫県南部地震が発生し、阪神・淡路大震災が引き起こされました。被害は全体で死者6,402人、全壊家屋104,906棟に及び、西宮市では、死者1,146人、倒壊家屋61,238世帯という甚大なものでした。被害は指定文化財にも及び、建造物3件が指定解除となりました。

原始~古代

【弥生時代】
 西宮市内では、旧石器時代及び縄文時代の明確な遺跡は未発見です。苦楽園六番町からは後期旧石器時代に属するナイフ形石器が発見されていて、隣接する芦屋市岩ケ平(いわがひら)遺跡と一連の遺跡であると考えられます。縄文時代の石器は、甲山山頂遺跡、岡田山遺跡、上ヶ原新田墓地遺跡で採集されており、近傍に集落遺跡が所在する可能性があります。弥生時代前期に始まる集落遺跡として、市域南部に越水山遺跡、北口町遺跡、津門稲荷町遺跡があります。また、弥生時代後期のいわゆる高地性集落として、仁川五ヶ山遺跡があります。同遺跡からほど近い甲山山頂では銅戈が、臨海部の津門大塚町付近からは銅鐸が発見されています。高松町遺跡では、水田跡が検出されています。
【古墳時代】
 市内の前方後円墳には、中期から後期にかけての津門稲荷山古墳、津門大塚山古墳、上ヶ原車塚古墳が所在したことが知られますが、地上部はいずれも現存しません。後期以降の大型横穴式石室古墳として、実戦的な馬具等豊富な副葬品が出土した具足塚古墳、組合式石棺を有する仁川五ヶ山古墳群があります。上ヶ原古墳群、神園古墳群、八十塚古墳群など丘陵地に位置する群集墳のほか、詳細未詳ながら津門地区では該期の須恵器が多く出土していて、臨海地に埋没する古墳群の所在が推定できます。また、津門地区の北に広がる高畑町遺跡では、古墳時代中・後期の大型建物跡等が検出されており、相互の関連が注目されます。北部山口町には、いわゆる終末期古墳の範疇に含まれる青石古墳が知られます。

古代~中世

【記紀の時代】
 古代には、西宮地方は西国と都を結ぶ航路上に位置し、近傍に河口港と考えられる武庫水門(むこのみなと)があって、津門においては漢織呉織のような渡来人伝説を生み出しています。延喜式神名帳に記載がある神社として、広田神社、名次神社、岡太神社、公智神社があります。広田神社は神功皇后が武庫水門で占い、天照大神の荒御霊(あらみたま)を広田に祭ったことをはじめとします。一方、公智神社は有馬温泉に近い山口町にあり、社名が孝徳天皇の有馬温泉行幸にかかる伝説にかかわります。
【平安時代】
 平安時代には、「西宮」は広田神社を指しました。当時の広田神社には、海岸近くに南宮といわれる別宮のうちの摂社にエビス神が祭られており、それが西宮神社の元となったといわれます。一方、西宮神社には、東の鳴尾の沖で漁師の網にかかった神を祭ったことから始まるという興味深い伝承もあります。西宮神社が位置する砂洲は次第に発達・拡大して、その砂洲上に門前町を形成します。この周辺では平安時代末ころ以降、連綿と遺物が出土し、現在の西宮市街の基盤となったことがわかります。そのころ広田神社は都の貴族の尊崇を集め、3度の歌合せ(うたあわせ)が知られています。
 高畑町遺跡では、古代にあっては「摂津国武庫郡日下部某」木簡・和同開珎・斎串などが出土した井戸跡や大型建物跡群などが発掘されています。奈良時代・平安時代の官衙的性格をうかがわせ、古代の西宮地方において他とは隔絶した内容と規模の遺跡です。
 平安時代末には、真言宗寺院神呪寺、鷲林寺が建立されました。神呪寺には空海や地方豪族日下部氏出身尼僧がかかわる開基伝説があります。また、重要文化財仏像彫刻4躯のほか、多くの仏教美術品が伝わります。
【鎌倉時代~南北朝時代】
 鎌倉時代には西宮神社の門前に市街が拡大し、禅宗寺院順心寺・六湛寺・海清寺が建立されました。また、北部生瀬町の武庫川のほとりにある淨橋寺は、出土した仁治二年(1241)銘古瓦が創建瓦であると考えられ、重要文化財木造阿弥陀如来坐像及び両脇侍像、市指定文化財である石塔群等多数の文化財を伝えています。一方、津門地区にある浄土宗寺院昌林寺には重要文化財阿弥陀如来立像・善導大師坐像、北部山口町の浄土真宗寺院明徳寺には、重要文化財阿弥陀如来立像が伝わります。
 上鳴尾墓地、極楽寺、旧六湛寺墓地にも、五輪塔や五輪卒塔婆などの石塔が多数伝わり、造塔が盛んであった鎌倉~南北朝時代の様子をよく伝えています。
【室町時代】
 旧六湛寺(茂松庵-茂松寺)の虎関師錬画像、海清寺の無因宗因画像は開山を描いた南北朝~室町の頂像で、西宮町における禅宗寺院の興隆がしのばれます。そのほか、室町時代の絵画に、兵庫県指定文化財善恵上人伝絵(淨橋寺)、四社明神画像(永福寺)があり、多彩な仏教美術を今に伝えます。
 山口町公智神社にはこのころ造られた本市最古の建築として御輿殿があります。また、同社拝殿下から4591枚の銅銭が出土しています。さらに、石在町からは、これを上回る19803枚の銅銭が出土しています。いずれも室町時代後半期に埋められた中国北宋銭を中心とする大量埋納銭で、当地方への貨幣経済の拡大を示して余りあるものです。私鋳銭や無文銭などが含まれていて、宋銭や明銭などともにそれらが使用されていた実態を表しています。
【戦国時代】
 永正13年(1519)瓦林正頼が築いた越水城は、「堀・壁・土居・矢倉」を備えた「本城」の周囲に「外城」を構え家臣団の屋敷を従え西宮にはその他の家人たちを住まわせたといい、城下町の前駆ともいわれます。

近世

【安土桃山時代・江戸時代】
 十日えびすで有名な西宮神社の「赤門(表大門)」・「大練塀」は重要文化財で、室町時代から江戸時代はじめにかけて西宮神社が整備されたことを物語ります。
 京都から淀川北岸を経て西宮を通り西国に至る山陽道は、江戸時代には脇往還山崎通となりました。西宮は山崎通随一の宿駅として江戸時代末には人口8千人を超えます。もうひとつの宿駅である生瀬は、山陽道から分かれて有馬温泉や播磨・丹波地方への途上の武庫川西岸にあり、江戸時代には荷物継立ての宿駅として繁栄しました。宿駅業務などを記した古文書が浄橋寺に残っています。
 西宮地方は尼崎藩領・幕府直轄領等が入り組み、上知(あげち)によって直轄領が拡大しました。市内には、当時の支配地を示す尼崎藩領界碑が3箇所に残ります。
 西宮町には、尼崎藩陣屋が置かれ、明和6年(1769)の上知の後大坂町奉行所勤番所となりました。勤番所から後の西宮町役場に伝わったとみられる「慶長十年摂津国絵図」(兵庫県指定文化財)からは、近世初頭における当地方の村高、交通路等を知ることができます。
 西宮町の周辺の台地上や低湿地では、水路・溜池を設けて新田開発が進み(西宮市指定史跡上ヶ原用水路等)、干鰯や綿の絞り粕など金肥を用いて、綿を生産する農業が発達しました。それら農村を経営した大庄屋・庄屋を務めた岡本家、中村家、中島家、鳥飼家などに古文書(西宮市指定文化財)が伝わります。
 西宮・今津は、米・水・寒冷な冬季季節風のほか、農閑期の労働力、急流を利用した水車精米に恵まれて効率的な清酒の製造が行われました。江戸時代後半から明治にかけては、西宮・大坂と江戸を結ぶ樽廻船の輸送によって、江戸積み酒造地として大きく発展しました。また、天保11年(1840)に宮水が酒造りに適した水であることが発見され、以来、灘の酒造家たちは競ってこの地に井戸を設けました。
 今津には、経済力を背景に大観楼といわれる郷学所が経営されました(『今津先賢遺文集』)。酒を積み出す今津港に灯台が建造され、「今津燈台」(西宮市指定文化財)として現在に伝わります。西宮町は、尼崎藩、後に大坂町奉行所の支配を受け、門前町・宿駅の町としての「町方」と酒造りの町としての「浜方」及び周辺の農村からなっていました。
 江戸時代後半期には、群衆運動が活発化しました。文政13年(1830)全国に拡大した御蔭(おかげ)参りは、先の岡本家文書にも参宮の様子が記されています。それに続いて発生した御蔭踊りが、翌年には当地方へも伝わりました(市指定文化財「越木岩神社の御蔭踊り図絵馬」)。慶応2年(1866)に西宮の窮民による打ち壊しが発生し、翌慶応3年に大坂・西宮などでええじゃないかが流行しました。慶応3年大政奉還の後、武力倒幕を謀る長州が六湛寺に本陣を、海清寺に奇兵隊を置くなど西宮を拠点としました。『老いの思い出』(吉井良秀)には、ええじゃなかの群衆が長州藩宿所に入り込み、兵士共々踊ったことが記されています。
 また、文久3年(1863)に尼崎藩が農兵の砲術訓練を行ったり、慶応2年に西宮砲台(国指定史跡)等が建造されたりするなど摂海防備が行われました。

近代

【市域の形成】
 西宮地方は、明治22年(1889)町村制施行により、武庫郡では西宮町・今津村・芝村・大社村・甲東村・瓦木村・鳴尾村、有馬郡では、山口村・塩瀬村が誕生しました。西宮町には武庫郡役所が置かれ、当地域の行政の中心となりました。大正14年に西宮が市制を施行した後、昭和8年に今津町・芝村・大社村、昭和16年に甲東村、昭和17年に瓦木村、昭和26年に鳴尾村・山口村・塩瀬村を合併して、現在の西宮市域を形成しました。
【西宮の近代化】
 洋風建築等近代を象徴する建築物に、旧今津小学校舎「六角堂」(明治15年−1882)、旧辰馬喜十郎住宅(兵庫県指定文化財・明治21年−1888)、甲子園球場(大正13年−1924)、多聞ビル(昭和3年)、甲子園ホテル(昭和5年−1930)などがあります。
 明治7年(1874)に大阪と神戸の間に鉄道が開通し、その中間の駅として「西ノ宮」駅が設けられました。明治38年(1905)には阪神電車本線が、大正9年(1920)には阪急電車神戸線が開業し、神戸−大阪間の交通が急速に発達しました。郊外電車が開通した大阪近郊の小都市には大阪市で働く人のための郊外型の娯楽施設や住居開発が盛んになり、西宮地方では、明治40年「香櫨園娯楽場」、明治39年「苦楽園明礬谷保勝会」、明治40年「関西競馬倶楽部競馬場」、明治41年「鳴尾速歩競馬会競馬場」、大正7年「甲陽園」、大正11年「甲東園住宅地」、大正13年「甲子園球場」、昭和3年「甲子園住宅地」、昭和12年「西宮球場」などがありました。それらと並行して旧市街地の区画整理が進められ、西宮市街の骨格が形成されました。
 昭和初期には上ヶ原に関西学院が、岡田山に神戸女学院が移転し、洋風建築からなる校舎群が独特の景観を形づくっています。これら学舎に加えて、松山大学温山記念館、武庫川女子大学甲子園会館等7件が国登録文化財建造物となっています。

民俗と無形文化財

【西宮の漁業】
 広田神社・西宮神社の前面の海を江戸時代「御前の澳(沖)」とも言い、その海岸を「御前の浜」とも言いました。この海で採れる鯛や河口付近で採れる白魚などが、『山海名産図会』や『摂津名所図会』に描かれています。また、綿の栽培に欠かせなかった干鰯の原料である鰯を大量にとるための漁法が発達しました。これら西宮や周辺の地方の漁法や酒造り、樽廻船などに関係の深い人々が、生業や技術、信仰を携えて関東地方に移り住んでいました。その後、西宮の海浜では昭和40年ころまで漁業が続けられていました。郷土資料館では、その最末期の漁業の姿を知ることができる漁具の一括資料が収集されています。
【祭礼と講】
 最近の調査で、市内各所にだんじりを巡行するまつりや講が行われていることがわかりました。
 北部の山口、塩瀬の旧集落においては、今は町内会となっている地区ごとにだんじりを保有して、それぞれ公智神社、名塩八幡神社の秋の祭礼時には巡行する地域社会が維持されています。市内では、観音講、地蔵講や伊勢講が寺院の檀家や町内会の規模で行われていることが少なくなく、行者講も一部で行われるなど、市内各所に、民俗的な社会組織の存在が知られます。
 鳴尾地区小松の岡太神社では、秋の祭礼として「岡太神社の一時上臈」(市指定無形民俗文化財)があります。元は南講と北講に分かれて年番で頭屋を勤めていました。江戸時代の地誌や北講の記録から、近世の民俗儀礼が現代までよく伝わっていることがわかります。
【名塩紙】
 塩瀬町名塩には、江戸時代以前から続く紙漉(かみす)きの技術(重要無形文化財「名塩雁皮紙」)があります。技術は越前から伝わったといわれ、名塩には東山弥右衛門が伝えたという伝説が残っています。名塩と越前の関連を記した初見として、『絵入有馬名所記』(寛文12年−1672)に、「名塩紙 鳥の子を始て五の色紙、雲紙まてもすき出す事、越前につきては世にかくれたなき名塩なるべし、そのかみ乃記、私か末も彼所にありけるにや」とあります。名塩紙は、①主原料を雁皮(がんぴ)とすること、②名塩産の泥土を混和すること、③男性による溜漉(ためす)きを行うことを特徴とします。襖(ふすま)下紙や箔打(はくうち)紙、藩札(はんさつ)原紙として大きな需要がありました。名塩紙をはじめ和紙の学習拠点として、平成元年に名塩和紙学習館が開館しました。
 また、名塩には幕末維新期に蘭学塾が建てられました(文久2年−1862〜明治2年−1869)。大坂適塾出身の伊藤慎蔵が開いた塾で、適塾の緒方洪庵は名塩出身の八重を妻としていて、伊藤の妻も八重の紹介でした。

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